はるかなるミャンマー マカピーな日々#0303
マカピーです。
昨日2月1日、ミャンマーでクーデターが発生したとニュースで知りました。
軍が民主化のリーダーであるアウンサンスーチー氏ほかを国会開催直前に拉致した模様で在日ミャンマー人も東京に集まって抗議集会をしている模様もTVニュースが伝えています。
マカピーはアウンサンスーチーさんがまだ自宅軟禁されている頃、当時の首都であったヤンゴンを訪ねています。
FAO国連職員のインド人の友達の車で市内を案内してもらった際に、
友:「ほら湖の向こう側なんだけどアウンサンスーチーが住んでいる家があるんだ。ぼくの家からすぐ近くだけど誰も近寄れないんだ」
マ:「いつ自宅軟禁が解かれるのかなあ?」
友:「分からないなあ、ノーベル平和賞受賞者であっても、この軍政は神経をとがらせているからね。連中はぼくらの電話やメールまでチェックしているくらいだしね」
マ:「本当に?」
友:「外国人が地方に旅行なんかしたら、知らないうちに秘密警察が行動を見張ってるんだよ」
マ:「そんなにヒマなの、警察って?」
友:「さあ、それが仕事がからね。だから旅行するにもいろいろ制約があるだろう?国内旅行でも必ずパスポートの提示が求められるし・・・。我々外国人だけじゃないけど、いつも誰かに監視されていて息がつまる生活なんだよ」
実は戦時中マカピーの祖父はビルマ(現在のミャンマー)戦線に従軍しています。「インパール作戦」という帝国陸軍における大失策により戦闘ではなく、飢餓傷病で沢山の将兵が死んでしまいその逃走路は「白骨街道」と呼ばれたという話を聞いたことが有るでしょう。
インパール作戦に関しては尉官だった祖父は「そもそも兵站(ロジスティクス)ができていない」と懲罰覚悟で猛反対したので、上官から前線部隊から外されたと自嘲気味にマカピーにも話していました。
祖父:「一尺でも東京に近ければ嬉しいです」
ビルマで白骨とならなかった祖父は自分の小隊を何とか日本に帰還させることに苦慮したそうです。もっとも彼自身も無傷ではなくアメーバ赤痢で危篤状態になり他の部隊にいた従弟が駆けつけたエピソードもその従弟から聞いています。
祖父自身にとっては3度目の出征で、既に中年となっていた彼は口には出さなかったけれど戦況不利が分かり「日本の敗戦」を覚悟していたのでした。
祖父の部下は自分の娘とほとんど同じ年で、みんなから「オヤジ」と呼ばれていたそうです。更に祖父には夭折した3人の男の子がいたので何とか息子のような彼らを日本に戻そうと気遣っていたのでしょう。
マカピー達にはほとんど戦争体験を話すことなく亡くなった祖父ですが、ビルマの民主化運動が盛んとなった事件(1988年)では、TV中継している最中に国軍に撃たれたロンジー姿の学生が絶命するする様子を居間で呆然と見て、こう言いました。
祖父:「あ、やられた!」
祖父:「・・・・今学生が兵士に撃たれたのは市内のスーレーパゴダの前だ。わしは戦時中その前で幕営(キャンプ)したことがあるんだ」
マ:「どうなっちゃうんだろう、あの国は?」
祖父:「・・・・・」
この事件からアウンサンスーチーさんが登場するのでした。
この事件前には近所の食鶏加工センターで働いていたミャンマーの若者がいるというので祖父母は彼らを呼んでお茶をだして話を聞き、毎回なにがしかのお金を渡していたと母から聞きました。
祖父は自分が大東亜戦争で従軍したビルマが少しでも良くなってほしいと願っていたのかも知れません。
マカピーの祖父が兵士としてやってきたスーレーパゴダにお参りに行きました。辻のロータリーの中央にある寺院ですがとても静かでした。
しばらく家族と離れて床に座り目を閉じると、菩提樹の葉がサラサラと音を立てるのが分かりました。
マ:「おじいちゃんの孫たちを連れてやって来たよ。まだこの国は軍政だけど、こうして来れたんだから状況は明るくなっているみたいだよ」
祖父の声は聞こえませんでしたが、ここに来れたことで気持ちがフッと楽になったのを思い出します。
あれから根強い民主化運動を続けたアウンサンスーチーさんが国をリードするまでになり、鎖国を解いて急激な経済成長を遂げる国となったミャンマーにまた試練が訪れています。
どうか、無用な血を流さず平和が取り戻せますように。
マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。Peace on earth!
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