英語がうまくなれないタイプの人
いきなりだがあなたは 「あの店で傘が売っていた」 という日本語の表現に違和感があるだろうか?
日本語と英語では、世界観がだいぶ違う。 英語は 「語順」 に重要な意味があるので、日本語の単語を英語に置き換えるだけでは全く英語にならない。 「文の構造」 を常に意識しながら話すのが英語であって、単語(文節)の順番を入れ替えても意味が変わらない日本語とは、根本から違っている。
それがよくわかる例が、能動態と受動態の考え方だ。
あー驚いた、というとき、「驚いた」 という言い方には何も違和感はないよね。 自分が何かに驚いたということだ。
これを英語にすると、”I’m surprised,” だ。 日本語では必要なかった主語 “I” が登場する。 そしてお気づきのとおり、この文は文法的には受動態(受け身形) だ。 「驚いた」 が受け身だということをはっきり意識できるかどうか、が英語のセンスのあるなしを決める。
日本人は、「自分」 が驚いた主体だと思いがちなので、”I surprise ~” とか “I’m surprising ~” などと言ってしまいやすい。 違うんだよ。 驚いたというのは、「何か」 に驚かされているのである。 何もないのに驚かないでしょ。 自分が何かに驚かされているから、受け身なのである。
という上記の説明は、私が実際にネイティブからされたものである。 その時の私はアメリカで英語を勉強していて、レベルは 8段階のうちの下から 3 か 4 ぐらいだったと思う。 アメリカに来たばかりで、一日中英語の環境に暮らしていても、頭の中はまだまだ日本語モードだったのだ。 ネイティブの説明を聞いても、何だか納得いかん、と思っていたのを覚えている。
だけど今になってみると、この説明はもっともだと感じる。 というか、そりゃこういう説明しかないよね、という感じだ。 英語を話している時の感覚はまさにこの通りだから。 自分が勝手に驚いているんじゃなくて、「何かが→驚かせている→自分を」 っていう感覚。 だから、自分は驚かされているほうなので、受け身なのだ。
受け身にしないとどうなるか。 「驚いた」 と言いたいのに “I surprise ~” と言ってしまうと、自分が驚くのではなく 「自分が誰かを驚かせる」 という意味になる。 “I want to surprise my boyfriend on his birthday,” とかね。
誰(何) が誰(何) を驚かせたか、という 「方向」 が頭に浮かんでいるのが英語だ。 例えば、
“I was surprised by his attitude,” の場合は 「I ← his attitude」 であり、
”His attitude surprised me,” の場合は 「His attitude → me」 だ。
同じことを言っているので、まるで英語のテストに出てくる書き換え問題みたいだけど、英語の感覚が身についている人が話す時は、どちらの場合も、surprise がどっちからどっちへ動いているかという 「方向」 が頭の中に浮かんでいる。 この感覚がよくいう 「英語脳」 の一例なのかもね。
で、冒頭の日本語に戻る。
「あの店で傘が売っていた」 というのは、日本語としても文法的に正しくない(誤用だけど浸透してしまって許容されつつあるけれども)。 「傘が売っていた」 を正しく言うと、
「傘が 売られていた」
または
「傘を 売っていた」
である。
どうだろうか? 傘は自分で自分を売っていたのではない。 だから、「傘が」 が主語になる時には、動詞は受け身になっていないとおかしい。 傘は誰かによって売られていたからだ。 というわけで 「傘が売られていた」 になる。
動詞(述語) を 「売っていた」 とするのなら、「傘」 は目的語だ。 何を売ったかという答えが傘だ。 だから、「傘を売っていた」 となる。
「あの店で傘が売っていた」 という文は、あの店で 「傘が 『何かを』 売っていた」、ということにしかならない。 意味不明である。 この文に何の疑問も持たない人は、英語に必要な 「主語と動詞と目的語の感覚」、つまり 「主語に関して動詞が示している方向を意識できる」 というセンスがないので、いくら勉強しても英語はうまくならないと思う。
ただ、日本語しか知らない時には違和感を覚えなかったけど、英語を勉強することによって、日本語のあいまいさに気がつくということもあるかもしれない。 それは否定しない。 英語を勉強して、日本語への理解も深まるなら何よりだ。
さて、今回この文章を書こうと思ったのは、どちらかというと英語ではなく日本語のことを言いたかったから。 つい最近、同じタイプの日本語の悪文に遭遇したのだ。
スーパーマーケットで弁当を買ったら、こんなシールが貼ってあった。
「食欲のそそる1杯」。
おい、それを言うなら、
「食欲の そそられる 1杯」
または
「食欲を そそる 1杯」
でしょ! (なんかがっかり・・・)
こんな例が、世の中にどんどん増えてきている。 心の中で、日本語おかしいだろ!とつっこむことがしばしばだ。 日本人が、母国語である日本語に対して持つべき注意力のようなものが、ものすごく低下していると思う。 特に、助詞(いわゆる「てにをは」) の間違いとか、同音異義語の間違いとかはひどくて、遭遇しない日はないほどだ。
時代につれて言葉が変わっていくのは自然なことだが、それ以上に、明らかに誤用である日本語が多すぎる。 自分たちの母国語に鈍感すぎるのではないか。 あるいは単純な日本人の劣化。
基本的に、外国語がどれぐらいうまくなれるかは、自分の母国語のレベルに比例する。 母国語のレベルを超えて外国語がうまくなることはない。 語学のセンスは、母国語によって磨かれるのだ。 日本人の日本語力が低下していることと、日本人の英語スコアがいつまでたっても上がらない(いやむしろ下がってきているらしい) ことは、きっと関係あるんだろうね。