日本人は「アジア人」でしかない
日本人は、例えば中国人と日本人はまったく違うと思っているし、韓国人とだって文化はかなり違うと思ってますよね。
だけど、西洋文化の中にいて、世界各国から来た人たちと一緒の社会に暮らしたあとでは、日本人って中国人とそっくり、と思うことがよくあります。
日本に帰国してから、ニューヨークではありえなかったな、と思うことのひとつに、「人とぶつかっても謝らない」 ということがあります。
ニューヨークでは、街を歩いていて、もし誰かとぶつかったり身体が触れたりしたら、”Sorry!” と謝ります。 身体が触れるということは、失礼なことだからです。
身体に触れないのはもちろんですが、元々のパーソナルスペースが広いのでしょう、列に並ぶ時なども日本より距離を取ります。 前を歩いている人を追い越す時なんかでも、十分な距離を保つのが普通です。 私の経験したことで、すぐ横を誰かに追い越されて うわっ となったとき、身体が触れたのではなくてもその彼女は “Sorry!” と謝ってくれました。 人のすぐ横を追い越して はっ! と驚かせるなんてことも失礼なことで、そうならないように気をつけるものなのです。
なのに日本ではどうだろう。
人にぶつかっても知らん顔ですよね。 よけようともしないですよね。 腕が当たるとか荷物にぶつかるぐらいのことでは何とも思わないらしい。
これは、特に東京だからなのかもしれません。 東京以外の都市に行くと、ここまでひどくはないので。
東京でのこういう無神経ぶりは、本当に人としてちょっとおかしいと思ってしまいます。 近年では、わざと人にぶつかるという人間まで現れて、社会問題になっていますよね。
わざとぶつかるというのが、主に男性で、女性を狙っているというのが卑劣きわまりない。 弱い女性を狙って、自らのストレスを発散したり、時にスケベ心が混ざっていたりするのは、人間としてどうなんだろうか。 恥を知れ、と思います。
反対にニューヨークでは、そしておそらく西洋社会全般で、例えばすれ違う時にそれが男性と女性であったら、必ず男性のほうがよけて、女性に道を譲ります。 ぶつかるなんて、万が一にもありえない。 あるとしたら、何か避けようのない事故か、ちょっと精神的に問題のあるケースしかない。
ちょっと話がそれましたが、ぶつかっても平気であるとか、身体的な接触に比較的抵抗がない、というところは、とてもアジア的なものを感じさせます。 そして、ぶつかっても謝らないというところが、中国人と同じだよなと思わせるのです。
傍から見ると、こういう性質は、アジア人特有の同朋意識とでもいったらいいのか、お互いに謝らなくてもいいという甘えがあるように見えてしまいます。
ぶつかった相手が日本人だったら、もしくは日本人に見える韓国人とかベトナム人だったら気にもせず謝りもしないけど、もし相手が白人とか黒人だったらどうですか。 そもそも、白人とか黒人にはぶつかったりしてはいけないと、ちゃんとよけるのではないでしょうか。
そういうところは、日本人と中国人はそっくりです。 日本の中では、中国人や韓国人と日本人は違うよ、と思っていますが、全人類、東洋も西洋も含めた視点で見てみると、やっぱりみんな 「アジア人」 なんだよ、と実感するのです。 日本人と中国人が違うといったって、アメリカ人との違いと比べたら屁のようなもの。 話していても、アジアの人たちとは感覚が近くて、多くを説明しなくても通じるところがある。 アジアという family だな、と思います。
コロナ前には当たり前だった満員電車も、西洋人には耐えられないけど、アジア人は平気です。 何なら人が密集しているほうが、アジア人には快適なのかもしれない。
インドでの光景なんて、ぎゅうぎゅうの満員電車は毎度のことだし、行列に並んでいても、前後の人と身体をくっつけるのが普通のようですよね。 ただ、インド人は文化的にはアジアだけれど、DNAでみる人種的にはむしろ白人に近いらしいというのが興味深いところです。
ニューヨークからの視点で日本を見たときに、アジアっぽいなぁ、と思うところを挙げてみましょうか。
人を年齢によって順序づける、というのが共通していますね。 年齢で序列ができ、年長者の言うことに従い、兄弟姉妹のうちでは長男が家を継ぐ。 これらのことは、中国の文化圏だなぁと思わせます。
年齢の順で物事が決まってしまうのは、私たちには当たり前すぎて、そういうものだと無意識に思っているでしょう。 でも考えてみてください、英語の文化には、「兄」 と 「弟」 の区別はなくて、ただの brother です。 「姉」 でも 「妹」 でもなく sister です。 年齢の意識はなく、序列もなく、すべて対等です。 それぞれの人間としての個性があるだけです。 日本ではきょうだい同士で 「兄ちゃん」「姉ちゃん」 と呼びかけるところを、英語の文化では年上でも “Mike,” “Tanya,” なんて名前で呼ぶわけです。
英語だけでなく、ほかのヨーロッパ(ロマンス語系)の文化でも、ロシア(スラブ語系)文化でも同じですね。 Brother, sister を年齢の上下で区別した単語はありません。
言葉についてはまた、漢字が中国からの輸入だということに、反論する人はいないでしょう。 漢字は表意文字ですね。 文字ひとつひとつに意味があります。
日本語の文章は表意文字の漢字があることで、目で追ったときに意味がつかみやすくなっています。 英語はこうはいきません。 漢字は世界的にみて、現代の言語でほとんど唯一の表意文字ですから、私たち中国文化圏の人々の思考回路ですとか、精神構造を独特のものにしているかもしれません。
ひらがなもカタカナも、漢字をもとに作られたものなので、日本語の文字は全て中国の漢字から出来ている、と言ってもよいでしょうね。 ますます、日本の中の中国の影響は甚大だということがわかりますよね。 それも無理ないことかもしれません。 中国文明は、古代四大文明のひとつなのだから。
台湾、香港、韓国、ベトナム、マレーシアなど、漢字を使用している地域は(韓国は意図的に漢字の使用をやめたそうですが)、同時に、食文化も中国の影響を受けていますよね。
中華料理はもちろんのこと、トルコ料理もハラルもカリビアンもアフリカンも、世界中の出身者による 「本場の味」 が身近にあるニューヨークの感覚からすると、アジアの料理のイメージは、「箸と麺と米と醤油」、って感じですかね。
言うまでもなく、日本の料理ももちろん 「箸と麺と米と醤油」 に他なりません。 日本には日本の特徴があるけれど、外から眺めれば、やっぱりアジアらしいなということになります。
最後に、世界的に見れば、日本と中国の区別がついていない人も多い、という事実を、私の体験談から紹介してみます。
会話の中で、日本って中国でしょ? とか、日本は中国のどこにあるの? と訊かれることも実際にあります! もしかすると、日本のことを台湾や香港と勘違いしているのかな、とも思いますが、つまるところ日本やアジア諸国の存在感はその程度なわけです。
もちろん日本人と中国人を見た目で区別なんて絶対に無理。
ニューヨークのハーレムで、日本人のクラスメートと二人で歩いていたとき、あまりお行儀のよろしくない地元の Teenagers が、私たちに向かって “Chink!” と言ってきたことがあります。
(ChinkとはChineseの蔑称で、Japaneseに対するJapに当たります。 使ってはいけません。)
中国人のカップルに見えたみたいですね。 というか、この時に限らず、アジア人といえば Chinese、という認識しかない人が結構いるのです。
私はニューヨークに住み始めた最初の頃、何を食べたらいいのかわからないと思ったものです。 日本食は高くて、留学生の自分には手が出せない。 でも街なかで目に入る食べ物は、今まで見たこともない、味の想像ができないようなものも多かったのです。
そんな中、Chinese food は、見れば何なのかわかるし、どんな味なのかもわかる。 Chinese のテイクアウトには随分と助けられました。 ほっとする味でした。
人々がぎゅうぎゅうに密集して、触れたりぶつかったりしても構わないのは、とてもアジアっぽい。 反対に、相手に気を遣うという細やかなところもアジアっぽい。 私たちはこのニューヨークでは同じアジア人で、根っこの同じ文化を共有しているんだな、としみじみと思ったものです。