短編小説『家族』
彼女と再開して四年の時が経った。俺と彼女は社会人となり、結婚した。
俺が彼女と付き合うことになったのは、再開してから、一カ月が経った時だった。付き合おうと言いだしたのは俺の方からだった。あの時の彼女の顔は今でも忘れられない。彼女ははちきれんばかりの笑顔をで俺の告白を受けてくれた。そして、俺に抱きついてきて嬉しいと言った。私も信之助君のことが好きと言ってくれた。
そして、俺たちは恋人同士となった。とにかく毎日が楽しすぎて時間が流れるのが早かった。俺たちは半同棲みたいな感じでお互いの家を行き来していた。いろんなところにも行った。映画を見に行ったり、カフェに行ったり。彼女と過ごす時間はどんなときも笑顔で溢れていた。
そんな僕たちも歳を重ねて三十歳となった。二十五歳の時に産まれた子供も今年で五歳となった。名前は翔斗(しょうと)と名付けた。本当はしょうの字を笑という字にしたかったが、名前のことでいじめられてはこの子が可哀想だということで、しょうを別の漢字にした。この子はよく笑う子に育った。きっと僕たちが毎日翔斗に笑いかけていたからだと思う。来年から小学生になるこの子はちゃんと友達作りをすることができるだろうか。僕は今からそのことが心配で仕方なかった。だけど、きっと大丈夫だろうという思いもあった。だって、この子は、僕たちとは違って、笑顔の秘密を生まれたときから知っていたから。何度、この子の笑顔に救われてきただろうか。彼女とケンカをしても、この子の笑顔を見ると、怒っていたことなんてすっかりと忘れて二人とも笑っていつの間にか仲直りをした。仕事がどんなに苦しくてもこの子の笑顔のために頑張ろうと思うようにもなっていた。もちろん、彼女とこの子、どちらが大切かなんて聞かれても答えることはできない。だって、どっちも同じくらい大切な存在だから。僕を支えてくれている存在だから。彼女やこの子の笑顔を見てると、自然とやる気が湧いてきた。この先もこの笑顔を見るために僕は頑張って働こうと思えた。
「おとうさん見て~」
ランドセルを背負った息子が僕に笑顔で見せびらかしている。
「よかったね~」
僕は息子の頭を撫でた。
「うん」
息子は満面の笑みを浮かべて、満足そうな顔をしていた。
僕はどんな顔をして、それを背負っていただろうか、ふと昔の記憶が蘇ってきた。あの頃は、もうおばあちゃんから笑顔の秘密について教えてもらっていたから、たしか息子と同じ顔をしていたと思う。なら、彼女は、彼女は一体どんな顔をしてそれを背負っていたんだろう。僕は息子のそばに立っている妻の顔を見た。妻の顔は子供を優しく見守る母親の顔になっていた。その顔が彼女の人生を物語っているような気がした。きっといろんな経験をしてここまでやってきたんだな。僕の人生もいろいろとあったけど、きっと彼女の方がつらい人生だったはずだ。
「どうしたの?」
僕の視線に気づいたのか、妻は優しい笑顔を僕に向けた。
「ううん。なんでもないよ」
僕も優しい笑顔を妻にかえした。
息子はランドセルを背負ったまま、家中を走りまわっていた。僕と妻はその様子をソファに隣同士に座って、眺めていた。この時間がずっと続けばいいのに。こんな優しくて温かい時間がずっと続けばいいのに。この子が嬉しそうな顔をしていたら、一緒に喜んであげよう。この子が悲しい顔をしていたら、一緒に悲しんであげよう。この子が悩んでいたら一緒に悩んであげよう。そうやってこの子の成長を傍で、でも少し遠くで優しく見守っていこう。一緒に歩んでいこう。この子と妻と三人でいつまでも一緒に。
そして、時間はさらに経って、僕たちは五十歳になっていた。息子も成人を迎え今は二十五歳になっていた。息子は立派な社会人になって、今年、運命の人と結婚を決めたらしい。今は、一緒には住んでいないけれど、きっと楽しく日々を過ごしているだろう。
嬉しいことがあれば悲しいこともある。僕はおばちゃんの墓の前で手を合わせていた。
このお墓には僕の家族が埋葬されている。お父さん。お母さん。おじいちゃん。そして、おばあちゃんが入っている。一番最初にここに入ったのはおばあちゃんだった。
僕の人生を変えてくれた人。僕に人生の楽しさを教えてくれた人。僕を妻と巡り合わせてくれた人。僕に笑顔の大切さを教えてくれた人。僕の人生にこの人がいなかったら、きっとまったく違った人生になっていたことだろう。
「ありがとう」
僕はおばあちゃんに感謝の言葉を言った。
「そして、おめでとう」
僕はお祝いの言葉も言った。今日はおばあちゃんがこの世を去ってから、ちょうど二十年目だった。おばあちゃんはあっちの世界で二十歳になったということだ。おばあちゃん。あっちのせかいは楽しいですか。おじいちゃんとまた、巡り合えましたか。僕はまだまだそっちの世界にはいかないけれど、僕がそっちの世界に行ったときは、またおばあちゃんの家族になりたいな。
僕はおばあちゃんのお墓に向かって、微笑んだ。
「おばあちゃん。笑顔の秘密を教えてくれてありがとう。残りの人生もしっかりと笑顔の秘密を心に刻み込んで生きていくよ。妻と息子と息子の奥さんと孫と、みんなと一緒に笑顔の溢れる家族を作っていくよ。だから、そっちの世界で見守っててね。僕との糸を切らないでね。じゃあね。また来るね」
僕はももう一度、家族の埋まっているお墓に向かって微笑むと自分の家へと帰っていった。
そして、私は八十歳になった。私の人生はもう間もなく終えようとしてる。私は彼の家族のお墓の前でしゃがんで手を合わせていた。
彼は昨年、この世から去っていった。彼との別れは意外にもそんなに悲しいものではなかった。きっと彼とはまた再開するだろうなという予感があったからだ。だから今回、彼に見せる最後の顔は泣き顔ではなく笑顔でと思っていた。あの時は、泣き笑顔だったけど、今回は最高の笑顔を彼に見せてあげれた。私は彼の手を握って最高の笑顔をプレゼントして、彼の最後の時を一緒に迎えることができた。
そして彼はこの世からいなくなった。彼も最後の顔は笑顔だった。
彼の息が止まった時、私の頭の中に彼との思い出が一斉にあふれ出してきた。
楽しかった記憶も。
苦しかった記憶も。
ケンカしあった記憶も。
喜び合った記憶も。
悲しかった記憶も。
幸せだった記憶も。
笑いあった記憶も。
彼と共に過ごした何十年分の記憶が私の頭の中にあふれ出してきた。
そして、私は泣いた。
病室の彼と私しかいない空間で涙が枯れるまで泣いた。こんなに泣いたのはあの日以来だと思う。私が泣き止むまで彼はその冷たくなった手を話さないでいてくれた。
「ありがとう。俺と出会ってくれてありがとう」
どこからか、そう声が聞えたような気がした。
「ありがとう。信之助君。私に生きる勇気をくれて、私の居場所になってくれて、私と家族になってくれて、本当にありがとう」
そして、私はそっと彼の手を離した。
「僕と結婚してください」
彼にそう言われたのは、私たちが社会人になってしばらくしたときのことだった。彼と久々に重なった休日で彼の家でのんびりしている時にそう言われた。私は突然のことで驚いた。彼にプロポーズを受けたことにも驚いたが、なにより彼が私との恋を真剣に考えていてくれたことが嬉しかった。もしも、彼から言われなかったらいつかは私の方から言おうと思っていた。たとえ断られても私が真剣だということを伝えようと思っていた。だけど、彼に先を越されてしまった。私は嬉しさのあまり声が出なかった。そんな私の様子を彼は不安そうに見つめていた。
「だめ、かな?」
「ううん。ごめんね。ビックリしたの。あまりにも嬉しすぎて」
「てことは……」
「うん。よろしくお願いします」
「ほんとに?」
「うん。私と結婚してください」
「やった~」
彼は本当にうれしそうな笑顔をしていた。少しだけ、涙を流していた。
それから、私たちの同棲生活が始まった。しばらくの間は彼の家で一緒に住んでいた。だけそ、私たちの間に子供ができると、彼が言った。
「一軒家を買おう」
その一言で、わたしたたちは一軒家を買った。私たちはこの家で何十年も一緒に暮らしてきた。
ずっと一緒の空間にいるのだから、時にはケンカもした。本当に些細なことでケンカをした。彼が家事をやってくれなかったり、ご飯の味が彼の好みじゃなかったときだったり、子供の泣き声がうるさくて寝れないと彼が言ってきたときだったり、いろんなことでケンカをした。だけど、彼と別れたいと思ったことはなかった。だって、ケンカの後にはいつも二人して笑いあってお互いのことを許しあったから。その瞬間が私も彼も好きだったから。いつか、彼も言っていた。
「僕たち、いろんなことでケンカをしてきたけど、その後にはいつも笑顔でお互いを許しあったよね。僕はその瞬間が好きだった。その時は、本当に君と心が繋がっているような気がしたから、これだけ、長いこと一緒にいるんだもんね。ケンカをしない夫婦の方が少ないよ。だけど、それで別れるのか許しあえるのかを決めるのは、思いやりなんだよね。きっと相手の気持ちを分かり合おうとして、理解し合おうとするからこそ、何重にも糸が重なって固く太くなっていくんだよね。何十年も切れない糸に変わっていくんだよね。僕たちはそれができていたから、こうして何十年も一緒にいれることができた。僕はそのことが嬉しいし、幸せだよ」
私も同じ気持ちだった。彼が私の人生を変えてくれたあの日から、私は彼と一緒になりたいと思って生きてきた。その願いが叶った後も、私は彼と別れたいとは思わなかった。そりゃあ、不満も不安も怒りもたくさんあった。だけど、彼は私のことを理解しようと頑張ってくれた。だから、私も彼のことを理解しようと頑張った。最初は本当に少しずつだったけど、理解しあえるようになっていった。そうしていると、不思議なもので、なにも言わなくてもお互いのことが分かるようになっていった。彼もそう言っていた。だから、私達は何十年も共に暮らすことができていたのだと思う。
もちろん、ケンカばかりしていたわけではなくて、楽しいことも嬉しいこともたくさんあった。どれだけ語っても語りきれないほどの思い出が私の心の中に刻まれている。好きな人と一緒にいるのだから、当然どんなことをしていても楽しい。隣に彼がいるだけで、笑顔になってしまう。その中でも特別だったのは、やっぱり二人の間に新しい命が芽生えたときだった。あの時は本当に嬉しかった。感激した。二人の生きた証ができたみたいだった。
「この子の名前何にしようか」
「実は、もう決めてあるんだ。笑う人と書いてしょうとってのはどうだろう」
「え~。その漢字はやめようよ。もしかしたら、学校でいじめられるかもしれないし」
彼は少し残念そうな顔をした。
「でも、しょうとって名前はいいね。漢字だけ変えようよ。私たちの中では笑う人と書いてしょうとでもいいけど、この子に付ける感じは別のにしようよ」
「そうだね。どんな漢字がいいかな~」
そうして決まったのが翔斗だった。私たちはこの名前をよく笑う子に育ってほしいという願いを込めて名付けた。私たちが笑顔で救われたように、この子にもどんな状況でも笑っていられるような、そんな子に育ってほしいという思いを込めて。
この子の成長を二人で見守るのは幸せだった。楽しかった。私たちの願い通り、息子はよく笑う子に育ってくれた。それは、五十歳を超えた今になっても変わっていない。孫もよく笑う子供だった。子は親を見て育つとようく言うけれど、子供たちを見ていると本当にそうだなと思った。私の子供時代ももっとお母さんの姿を見ていたら、こんなに笑顔でいられたのかな。子供たちの様子を見ながら、時折、そんなことを考えた。
私は空を見上げた。
私の頭の中にいろんな彼との思い出が走馬灯のようによみがえってきた。私はその一つ一つを鮮明に覚えている。どこを切り取っても、私達の想いでは笑顔で溢れていた。
あなたがいたからここまで来れました。
あなたと出会ったから人生が楽しかった。
あなたが隣にいたからいつも笑顔でいれた。
あなたが私を救ってくれたから生きてこれた。
どれだけ感謝してもしきれないほど、あなたからはたくさんのものをもらいました。私からあなたにあげれたものは何があったでしょうか。きっと私からあなたにあげれたものはあなたの何分の一しかないでしょう。それでも、私の隣にいてくれてありがとう。私と最後まで人生を歩んでくれてありがとう。あなたと出会えた人生は最高に幸せでした。
あなたが私に笑顔の秘密を教えてくれたから、あなたが私に声をかけてくれたから、本当にありがとう。もしもあの時あなたが私に声をかけてくれなかったら、そう思うと私は恐ろしくなります。
「笑顔の秘密って知ってる?笑顔の秘密を君に教えてあげるよ。笑顔はさ、生きる活力なんだ。笑顔でいると、楽しい気分になれるんだよ。幸せな気分になれるんだよ。笑顔って、人を温めてくれるんだよ。笑顔って誰かを変えるんだよ。笑顔はさ、幸せの象徴なんだ」
あの日の彼のこと言葉が私の頭の中に蘇ってきた。私はこの言葉を胸に今日まで生きていた。どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、私は逃げ出さずに立ち向かうことができた。楽しむことができた。これもすべて、笑顔の秘密を彼から教えてもらったからだ。
「ありがとう」
私は彼の埋まっているお墓に向かって感謝の言葉を言った。
「私に笑顔をくれてありがとう。私に幸せをくれてありがとう。私に勇気をくれてありがとう。私に話しかけてくれてありがとう。私と一緒に隣を歩いてくれてありがとう。私と家族になってくれてありがとう。」
私は思いつく限りの感謝の言葉を呟いた。
私は涙を流した一筋の綺麗な涙を。彼に捧げる涙を。
そして、私は立ち上がると、もう一度彼のお墓に頭を下げてその場を後にした。
その日の夕日はとても綺麗だった。まるで、私の背中を押してくれるような明るいオレンジ色の光が私の目の前に広がっていた。
もう少し。この人生を楽しもう。
私はその夕日へと向かって歩き出した。
ゆっくりと、一歩一歩足跡をつけるように
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