2024/09/28日記_穴ボコだらけの楽しい会話
6人で話していて、年齢的には40〜50歳の人たちで話していた。老眼が始まった、わたしはまだ、みたいな身体のがたつきの話もしながら、ドラマや映画のおすすめ合戦になった。俳優の名前がパッと出てこない、姓しか出てこなかったり、名しかでてこなかったり、全部わからないときは、あの、その、みたいな連想ゲームになった。若い俳優の顔と名前も一致しないし、あの人とあの人が似てるよね、わかる〜、え〜似てないよ、みたいな議論になる。外国の映画を見ると名前と顔が覚えられない、みたいなことが国内の作品でも頻発するようになってきて久しい。それを、皆が笑いながら話している。かつて祖父母や両親がそんなことを言っていて、それは〇〇でしょ、と手助けしていたのに今は自分がそうなっている。穴ボコだらけをむしろ楽しんでいる。
今朝は準備をしながら「さよーならまたいつか!」を何度聴いたことか、歌ったことか。
『ボーはおそれている』をぶつ切りで観ている。意味はわからないけど、とてもおもしろい。半分くらい観終えたけど、このまま意味がわからないまま終わって欲しい。意味のわからないことに想像力を使っている人たちがいる。そう思えるだけでも元気が出る。ストーリーが整ってない映像ほど、心踊らされたり、頭を使う。伏線の回収もなくていいから、想像力が爆発するままにあって欲しい。
今日の大谷翔平もすごかった。そう思いながら、虚無感がある。手が空くとTwitterで試合の最新情報を確認してしまう。家に帰ったら試合のハイライトを観てしまう。大谷翔平のことやF1のこと、これは自分で何が楽しくてやっているのだろうか。間を埋めているだけのような気がして、気持ちが釈然としない。その時間を映画を見たり読書する方が、充実しているのではないかと思う。ぼくはゲームはしないけど、ゲームをしているような感覚ななのだろうか。でもプレーをしているのはリアルな大谷翔平だから、自分はその結果に気分を上下しているだけではないか。自分を手放しているようなそんな気持ちになる。