私の「雨の海」(リリカオ)

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細かい前段は抜きにして、まず僕は「雨の海」を誤読してたんですよ。

この歌は人称がまず自分(便宜上「彼氏」とします)にあって、自分がパートナー(便宜上「彼女」とします)と別れる、まあフラれる感じでのお別れの場面を歌っていると思ってたんですね。彼氏が車を運転しててね。彼女を送り届けるところですよ。
『次の角を曲がれば このアトラクションも終わり』
恋愛期間全体を「アトラクション」と捉えるか、最後の一日をアトラクションと捉えるかはあまり重要視していませんが、どちらを取るかでも少し印象は変わるかもしれないですね。
まあ1行1行取り出していくのは変態行為なのでそれは変態になってからやりますか。

僕は上に書いた通りずっとこの歌はまず彼氏目線で始まる歌で、それがサビになると
『月の中へと 私を連れてって』
と「私」になって彼女目線になるので、それが面白いと思ってたんですよ。すごく好きだなあと思って。
その誤読のまま全体を通してみると、この二人はお互いに愛し合っているのにこのときを以って別れることになってて、ああなんてせつないんだ!って悶絶しましてね。彼氏は彼女を車で送り届けて、もうゆっくり走ろうが迂回しようがナビがどんどん正しい道を提案してくるわけですよ。ナビの件は何も歌ってないですが。いや最近ナビに頼って運転してましてね。すげえ便利ですよね。気分で勝手に行先変更することにしてもあきらめずにUターンさせようとしてきてしつこいやもう我慢強ささすがだなって思いますよ(?)。そういう話じゃないですね。とにかくもう家に着いてしまう。

『ページめくり君との記録 目に触れないようにしても』
『どの景色にも君が映り込むの 破り捨てられない記憶』
その間にも彼氏はこの先、生きていく中で見るもの触れるものすべてに彼女の存在を感じてしまうだろうと気づいてるんですね。これは二人の関係がとても強く深かったことを伺わせます。
これはほとんど人生(生活)を共にしたということですよね。僕は個人的に、まあ、いや、その、歯切れ...。まあほらさ、想像、想像な!イメージとして書きますけど、長い恋の終わりの後に呆然としたことがあったらしいんですよ。やはりですね、聞いた話ですが。
日常的に二人でいたことが一人になるっていうのは、生活レベルで不具合がけっこうありましたらしいんですよ。いや想像ですよ?二人で並んで眠っていたベッドに一人で寝たら寝心地不自然じゃないですか。みたいな。スーパーに行っていつも通り買い物したらこれ不要だったとかさ。人それぞれ何かあるんじゃないかな。動線とかタイテとかさ。この時間にいつも二人で何かしてたとか、いつも二人でここに行ってたからもう行けない、それがこのカフェだとかさ。それは結びつきが強いほど引きずるものやことも多いわけでこの話長えななんかあったんか。


ところがですよ、彼女が言うには、私を連れてって欲しいって言ってるんですよ。もう着いちゃうのに。
月の中とはどこなんでしょうかね。地球を離れようってことはもうある種現実からの逃避のイメージですよね。僕は別に死は想起しないですが、厭世的ではある。ノイズから離れて恋愛関係だけで生きたい、みたいな。それは現実的には無理だと分かっているから月へ行くんですね←意味がどんどん不明になっていく。
『誰もいない夜 私を見つめて』
誰もいないというのは、あなた(彼氏)自身の自意識(エゴ)すらも捨てて、私を全身全霊で愛して欲しいっていう彼女の願いです。何かあるんですか俺に。いや何もない。解釈だっつってんじゃん。誰もいない夜 Nobody Night. なんで英語。誰もいない夜って、すごく親密ですよね。静寂で。静かで寂しいんですよ←歌詞にはそんなこと書いてない。
「夜」を形容する言葉っていくらでもあるし他にも似合う言葉はあるのかもしれないけれど、二人の世界にとっては夜は誰もいない夜なんですよねきっと。二人だけの夜だなあって。
『雨の海の中、私を見つめて、見つめて』
溺れそうになる息切れで歌われるこの歌詞はもう膝から崩れますね。
現実世界を忘れて二人だけの愛の世界の中で生き続けましょうということなんですよ。

三嶋道人が書くLyricsってすごく映像的っていうんですかね。リリカオの曲って映像が頭の中にすごく広がるんですよ。映画みたいに。そういう歌詞は別に珍しくはないですが、僕の中では特別にイメージが広がります。それは他の曲もぜんぶですね。たまに書いてると思う。それはリリカオのステージパフォーマンスが楽曲の世界観をさらに広げる働きをしているから、というのも多分にありますね。三嶋さんの書く曲、天神さんの衣装、ライブハウス、そしてゆうかとこゆきの二人の歌とパフォーマンス。それらが素晴らしいものであるからして、僕の中に僕自身の芽生えが生まれるんです。創造性は想像力をさらに生み出しますよね。

さて、「雨の海」とはなんですかね。土砂降りの描写ですか。それとも瞳にあふれる涙ですかね。何かの比喩ですかね。何をイメージしますか。
この曲に馴染みのない人にあまり先入観を植え付けたくないのですが、ぼくのストーリーでは日が暮れて今日という日が終わるとともに二人の関係性も終わる。愛し合っているのに二人の間には何かがあって別れなければならない。僕15歳なんでよろしく。想いがありながら伝えることが出来ずに時間と場所は移動していく。それはずっと水中(雨の海)の中を進んでいくように捉えどころがなく濃厚で、しかし透明に澄み切っていて、それでも先は何も見えない。海の中には相手との記録が様々に漂ったままです。それでも雨ですから、流されていくんです。
海という永遠と雨という刹那が同時に成立しています。
そして車を降りると今日という日が終わり、「アトラクション」が終わり、なんです。現実には雨が止んでしまった。お別れなんですよ。終わりを噛みしめる歌。か、悲しすぎんだろ。泣いた。
ひでえよ。道人ひどい。こんなに俺を泣かすなんて!書いてて泣いた。(会社で書いてて泣いた)

ちょっと僕の思い込みがひどいのでそろそろやめます(笑)。


僕はそういうふうに捉えてこの曲を聴いています。平歌のところで二人称が「君」なので、僕は早合点して俺の君かと思ったわけですよ。それで彼氏(俺)目線で歌を聴いていて、サビで「私」が出てきたので「あ、これは人称が変わったんだ!いいね!」と思ったんですが、あるときそのことを友人たちにアツく語ってたら、マブさんそれ違うよ、彼女が彼氏のことをキミって呼んでるだけだよっていわれて、

ええええええええええええ!?

ってなりましてね。改めて読むとこれ普通に彼女目線だな(笑)。(おっちょこちょいなんです)
でもそれで僕はこの曲に対する印象は変わってなくて、つか相変わらずバースは俺目線でサビで彼女になる、っていう聴き方で聴いてます。あくまで誤読ですが、それだと二人とも惹かれあってるのになんで別れるのっていう独特の童貞ロマンチシズムみたいなのが爆発して楽しいじゃないですかそこは引っかからないでくれ。

作者の三嶋さんにそのへんの話を以前なんとなくしたことがあるんですが、彼は作品の解釈は聞き手の自由だしそういうのが聞けて面白いと思いましたと言ってました。
で、作者のイマジネーション(の源泉)というのはもっと別のところにもあったり、これはリリカオに限らずあらゆるアート作品は作者の意図とそれを受け取る側のズレ、そこが溝になってしまうと悲しいですけど、あれ?急に不安になりましたが、間違った解釈で愛している場合どうなんですかね。「私はそんな人じゃない」みたいな。俺、そんなやつじゃないよ!誤解だよ!みたいな(笑)。違う話してるな。


僕はよく「曲を自分のものにする」という表現を使うんですが、好きな曲が馴染んでくる感じってそれがあるんですよね。別にただ聴いて好き、なだけですけど、それが自分に張り付いてくる感覚ってあるんですよ。ありませんかね。自分の人生の劇伴になってしまう曲。これはそうだけどこれは違うって話ではないし、ローテーションの問題とも違いますから、やはり深度みたいなものですかね。ねえ?漫画とか映画でもいいですよ。これ俺のことじゃん!みたいなのあるじゃないですか。音楽だと、別に歌詞がべったり自分トレースしていなくても、フレーズや、もちろんメロディやサウンドであっても、自分のどこかに張り付くものってありますね。それを言いたいがために何文字書いてるんだ俺は。



以下は特にダラダラ続くのでお勧めです。

別になんでかな?って分析したとか理屈をつけた話ではないんですが、僕にとって「雨の海」はそういう想念が溢れてくる歌なんです。それで、聴くともれなく泣くっていうね。
以前ツイートしたことあるんですが、聴くたびに泣けるんで、試しに3回連続で聴いてみたいんですよ。これが、面白くないことに3回連続で泣けましてね。こりゃいかんと思って(?)連続して聴くのはやめました。泣こうと思って聴いてるわけじゃないですからね。


あまり知られてませんが僕ユーチューバーなんですけど(うそですが)、料理をして食ってる動画を撮ってるときにBGMで自分が作ったミックステープ的なもの(クロスフェードして繋げている)を流してて、自分で作ったくせに次に何が流れるかすっかり忘れてましてね。夏野菜のグリルを食べてるときに調子に乗ってしゃべってたら「雨の海」が流れ始めて、イントロでガァ~ン!てなって、それまで立って話してたんですけど椅子に座ってうなだれてしまうという動画がユーチューブに上がって、ませんけどね。いやびっくりしたんですよ。自分を客観視出来ないことにかけては誰にも負けない俺がですよ?雨の海を聴くとマブはこうなるんだ、っていうのを何のネタでもなく思いがけずナチュラルな己の姿を見ることになりましてね。こいつマジか?って思いましたね。何この人コワイって思いましたね。

で、最新情報ですけど、最近出張の関係で車社会なんです。仮住まいにギターを1本持ってきてましてね。仕事が終わってから衝動的に車を飛ばしてスタジオに行きまして。まあそれはいいんですが帰りに「試しに雨の海を聴いてみよう!」って意識的に選曲して(行きに別のグループのアルバムを流してたらスピードが出てて危険でした(笑))。平日の夜で他の車も走ってなかったので大丈夫だろうって何が大丈夫なのか何かの予感を感じながら雨の海を車の中で流したらね。これは大丈夫でした!いや俺もそこまで感情に流されて動いてねえから!ただね、これは具合がよくねえ。非常に心が散漫になりました。

「雨の海」が収録されているリリカオのSARASAというアルバムは内容はもちろん曲順も最高に練られてましてね。
それについて書き始めると、皆さん、今ここまで読んだ量と同じだけのことを今から書き始めたらもう離脱するでしょ?だから書かないですが、雨の海はラス前に置かれているんです。で、最後が「真昼の月」。いやあ語りてえ。雨の海にたどり着くまで、そして真昼の月で解放されるまで。万字語りてえ。
ひとつひとつ曲を歌詞カード片手に丁寧に聴いていくと、物語が立ち上がってきます。
それを書いたのは三嶋さんで鮮やかに演じるのはゆうかとこゆきの二人です。彼女らの歌唱とステージでのパフォーマンスが無ければ僕はここまでこの楽曲群に心は奪われない。出自がライブですから。目撃し、感応し、接触し、浸透する。

それぞれに想いがあると思います。作者にも演者にも内面が。それは聴き手にもある。僕はこういう性格なのでそれをこう受け取ってこうして文字にして表わしました。これは僕の雨の海の話。
あなたの雨の海は違う色をしていると思う。


それはあなたのものなので大切にしてほしい。




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