想像してなかった未来
今日は曇り。夜中は時々雨が降っていたな。今週はあまり天気が良くないみたい。今日は今の自分の生活やライフスタイルにフォーカスして振り返ってみようかなと思っています。
今、生きている。今。
私は今、自宅でカフェを運営していて、時々絵を描いたり、フライヤーを作って時間を埋めている。ただのカフェというよりはたくさん来たら少し困るカフェ。2022年に脳内出血をして #失語症 として診断され今がある。その前からコミュニティースペースとして場所の提供を行っていたし、野生動物の数より少ない居場所を求めた人のため(もちろん私も常連の利用者)にこのカフェを週2〜3回オープンしている。もちろん来場は全くない時もあれば、多くても5人程度の方が楽しんで来ている状況。他週1〜2はアウトリーチとして外にバイトとして、働きながら世間を見ている。毎日自宅にいると、言葉を交わすことがなくてどんどん言葉が消えていく事にも、恐怖を感じて外にも行ってみようか、そして見えない障がい者としてその他の皆さんがどう対応するのかを知りたかったと言う単純な、問いかけから始めた。
見て苦痛もある
この見えない障害を持つ前は、旅専門ナース カテゴリーといえば #ツアーナース だった。修学旅行や移動教室、ロケハン、登山、シルバー人材の慰安旅行、法要行事の同行やフィリピンの慰霊祭の同行など様々な旅に同行して、健康管理や救急処置を行うお仕事をしていたの。年間1ヶ月ほどの休み(移動日も含めて)で、年間65本のツアーつまり10000人以上の人と旅をする仕事。今思えばびっくりするけど、むしゃらと言う言葉がマッチする。
だから故に団体や危険回避、危機管理など旅専門ナースとして見聞きしてきたいろんな団体への経験から苦痛になることも多い。
知っている・経験していると言うことが邪魔になることもあって、知らなければ何もないことで楽しく過ごせるのだけど、知っている結果を考えると恐怖でしかない時の方が多い。それでも命に関わるときは助言をするけど、最終的には旅専門ナースとしては、オブザーバーで決断権はクライアントであると言うことも覚悟してきた。世の中には何もなくて、穏便に進んでいると思っていることが本当に、良いことなのかなんて外から見たらわからないのだろうな。と。でもそれを何もない前に提案・助言してもうるさい人で終わると言うことはわかっているから、最後の危ないと言う時まで最後の烙印は下ろさないって決めたのだった。
目に見えない障害と共に生きることを考える
私はそんなことは旅専門ナースを引退しても変わらない部分があった。それは私とパートナーが開催しているインベントや仕事であったら、自然に厳しかったのかもしれない。移住して4・5年経った、2022年11月に頭が痛くて、言葉が私が言いたいことがしっかり言えないことにパートナーが気がつき、土日を挟んで月曜日に病院へ行き即入院・加療して7日目に退院した。そこでも言葉がなくなると言う #失語症 と言うのは厄介で、言葉がわからないから説明しないと言われ、検査の説明や予後についても内容は今でも曖昧だけど、ちゃんとわかるように説明がなかったことだけは強く覚えているの。17年程度は病棟ナースでもあったから、もしも私だったら・・・と考えると、その時感じた私の感情は間違いではないと今でも沸々とあるのです。
まさか私がこんなことをするなんて
退院して何も出来ない中、言葉を思い出すきっかけは診断前から手話講座の学びが役に立った。ジェスチャーで言葉が引き出されて、言葉が増えた。実際に自閉症の方が使う手話があるとも聞いて、 #非言語 は元々興味があって授業を受けて楽しかったことも思い出したり、表現方法を模索した。
手話言語を伝える
手話講座を受けて2年目半ば。生活で必要な単語は少しできた。でも講座のときはリアル感がないので、うまく伝えなかったけど失語症になって、パートナーと喧嘩して言葉が出ない時、手話をバーって猛スピードで示して、驚かせた。私はそこまで凄いスピードとか思っていないけど、『できるじゃん』と思ったくらいだとパートナーは言っていました。面白いことですが、難しい指文字(あいうえお)は覚えきれずにいたので、その時も苦手でした。また言葉がなくなる事と一緒で、指文字も単語も忘れることがあることを面白くそして手話はやっぱり手話言語なんだと痛感。英語やスペイン語など他の言語を話すように、手話言語は伝えるツールとして、出来ることは重要だなって思いました。
2、カスタム作家になる
脳内出血する直前にデザインを作るツールを販売する会社のブランドアンバサダーとして、決定していましたが、その分野に無知で〇からのスタートでしたが、退院してすぐサポーターの方と話し合い、アンバサダーとしてデザインの勉強をして元々デザイナーさんたちが作ったものを、使って作品を作るカスタム作家としてスタート。ロゴやプロジェクトの挿絵などをたくさん作って経験を積みました。表現方法っていうのはある意味無限だなって思いました。いろんな人にも権利があることを知ってほしいと作家名はSunny(サニー)として活動して、同じように人の前に出にくい人や、作れるけどそれ以上にも慣れないと集まった人と一緒に『don't judge』をモットーに『サニートトモニ』と言う箱だけを作って、まず一人でも自分が必要とする居場所として作りました。実際にその場に来ることができない人も多いのだけど、ここにいなくても自分が安心する場所で、作ろう・表現しよう!!造形教室じゃないけどだから良いんだよ!とメッセージを送り続けて今でも継続しています。
3、絵を描く
一年程度はサニートトモニとして、カスタム作家として活動している中で、絵を描く人たちと触れ合うことがあり、私も描いてみたいと画用紙に絵を描くことが増えてきて、表現が増えれば増えるほど言葉のボキャブラリーが増えてきたように、言葉がスムーズに出るようになりました。もちろん疲れてくると吃ったり、スムーズに出ないこともありましたが、生活する中では問題ありませんでした。マッキーペンで描いたり、水彩、アクリル、ペンキなど様々。描いたものを見比べるとこんなに変わるものなのか・・・と自分でも感心しました。下手か上手かなんて、自分が決めることではなく、みた人が決める時もあれば、他の人にジャッジされることもないと色々考えることが増えてきました。今でもタイミングで紙媒体だけではなく、デジタルにもハマっていてTシャツやバッグなど作成につながっています。
4、作る
退院してすぐ書いたストーリーと、デジタルでカスタム作家の時使っていたツールで作った絵を合わせて、なぜか絵本大会に応募していた(私でもびっくりしたけど・・・)のだけど結果は落選。まあ、もちろんそうですよね、糸井さんが作った まつがいさがし と言う本で見たらわかるけど、その思いは乱れるほど、破天荒で激しい言葉が踊ると言われている。そんな感じと、失語症の当事者の言葉そのまま、修正せずに送ったから、まあね。それは仕方ない・・・と諦めて忘れることにしました。
その後6ヶ月後かな。その企画の編集者さんから自費出版しませんか?と声をかけられたけど、よく聞いたら自費だけに膨大な自己投資があると言うのを聞いて、見えない障害を持った私が稼げる金額ではない事にまた挫折。そして最終にはZINEにしてみようかな・・・と作る事にしました。
失語症の私が絵本を作ったよ
色々ブラッシュアップ
最初はあるものを使って、次は水彩。でも何か違うし・・・となった後、デジタルで描いて採用した完成2024年8月。それでも内容が発信しきれていないから売れていないのが現状ではあるのだけど、じわじわきてもらえたらなって思っています。絵本の内容は言葉が消える私のことだけど、目に見えないことで心を狭めている人全てに見受けられるシーン。困った時に何をしているのか、みなさん知っていますか?それ以上傷つかないように自分に言い聞かせている笑顔の裏側を絵本で伝えたいと講演会・販売会場を随時募集しています!!
最後に
私は結果、欠損した部分を補うものを求めて、今生きています。もちろんこの記事を書く私も、その私です。数日してこの記事を見返したら、ちょっと違うニュアンスかも・・・ってなるのかもしれないけど。
それも私です。脳内出血をした時には、絶望しかなかったけど今は少し、絵がをが増えたような気がします。ニコニコすることがいいとは思えないけど、もっと私は生き生き過ごしていきます。応援してください。間違った文字をそのまま受け入れてくれる方を随時募集しております。(笑)
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