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女で良かったことなんて一度もない

どうでもいいことなんですけど、”まあや”じゃなくて、”ま-や”という名前に変えたんですけど。全SNS。地味に疲れた。何故かっていうと、人が私のことを呼ぶ時「まーや」って呼ぶんですよね。そりゃ、「まあや」という感じで呼んでるのか、「まーや」って感じで呼んでるのかに、正解はないですし、この捉え方が合ってるとかも知りません。本人はもしかしたら「まあや」のつもりで呼んでる可能性もあるかもしれないですね。(ほんまにどうでもいいこと)

で、その「まーや」って感じで呼ばれてる感覚が好きだから、なんとなく変えましたって話です。そして今から書くことは、全然違うフェミニズム的な話を。

久しぶりに出会った良い本の紹介も。



女として生まれて生きること

まずは、自分が女としてこの世に生まれて、何を思って生きてきたかということについて。

女性であるということに異常な嫌悪感を抱いたりしたことはなかったけれど、女性であってよかったなと思ったことは実は一度もない。特に中高生の時は、男性の方が人付き合いが楽そうに自分からは見えていて、生まれ変わるなら男性として生まれたいと思っていた。

これは女性の中のあるあるだと思うのだけれど、思春期に女性であることで悩んだり、異常な嫌悪感を抱くという場合よりも、大人になってから思春期の時のアレは実は恐怖を感じるべきことだったのだと気付いたりすることのほうが多いのかな、と。

例えば、私は中学2年生の時に塾の帰りに下半身を露出した男性から話しかけられたことがあるのだけれど、当時はそれなりにその出来ごとを「キモい」と思っていた。

けれど、本当のキモさみたいなものが、後からじわじわと自分に押し寄せてきて、その波に飲み込まれそうになったことがある。

14歳という自分が、あの道ですれ違ったおじさんに性対象として見られていたこと、話しかけられたこと、その時におじさんが放ったここには書けないような一言。


それを私は人生の中で何度も思い出してきた。
そして、自分という人間が成長を遂げる中、ネットでは「痴漢されるような格好をしているほうが悪い」だとかそういう”男性的”な意見を目にしながら、静かに心を痛めていた。

けれど、そういうものだと思っていた。電車の中で盗撮をされたこともあるし、自分が降りた駅からストーカーされたこともあるし、駅員さんや警察官に頼ってもどうにもならない、そんな世界で自分は生きているということを、自覚しながら私は女として生きてきた。


精神的苦痛

今はSNSが浸透して、ジェンダーや国境を超えて色んな人の苦痛を知る機会が存在している。

社会の構造の下敷きになっている目に見えない苦痛があるということについて考えるとき、怒りを覚える人もいる。

「女はいいよな、なんでもそうやってセクハラだとか訴えられて」

みたいな感じで。

私は今この、文章を”女である自分”として書いているけれど、例え自分の過去の痛みの原因が男性によるものだったとしても、私の敵は男性ではない。

でも、自分の苦痛を訴えるということは何故か社会では、慰めて欲しいというふうに捉えられたり、特定の人物への攻撃のように思われることもある。

「フェミおば」とか、「女さん」とか、
そういうネット用語や、もっと酷い言葉もあるけれど、女性として生きる上で苦しかったことや痛みを言葉にすると、闘いが始まってしまう。

男性がもし、今の世の中が女性の都合いいように作られていると感じたとして、それによって自分の尊厳が守られていないと感じるのならば、それは主張するべきことであると、私は思う。


苦痛って、誰かのものでもないし、人によって付加価値がつけられるようなものでもない。


私は女性として、言葉にできないような精神的苦痛を抱えてきた。SNSで流れてくる「男女奢る奢らない論争」とか「モテる女の特徴」とかそういうコンテンツをぼーっと眺めながら、女として生きる上で、ずっと男性の視線に晒されてきたということについて考えていた。

女性としての痛みをわかってほしい?性犯罪を無くしたい?日本のポルノ文化のせいでこうなってる?

そういうことを伝えたいわけではない、言葉にしたいわけではない、自分が感じてきたことというのは、もっと心の奥底に潜んでいて、鉄の箱に入れられて、鍵をかけられているようなそんなことだ。


正直な話

たまに、男性からもっと女性を理解したいと思っているとかそういう話を持ちかけられることがある。

「僕、女性って大変だと思うんです」
「生理とかも、僕には想像できない痛みなんだろうなって思うし」
「いつもメイクも頑張ってて、だから男性よりも努力しててすごいなあって」
「胸が大きいとか小さいとかって関係ないと思うんですよね。だからどんな女性にも自信持ってほしいと思ってます」

こういう言葉を聞くと、私は正直な話、吐きそうになる。

でもね、実際問題こういう視点の男性って多いんです。
そして、こうやって女性を理解しようとしていることや、ネットに溢れる女性を攻撃するような過激な人と自分は違うのだというある種の”優しさ”が、一定の女性から他の男性とは違うねと支持されるということを本人は自覚しているのだろうと思う。「イクメン」みたいな言葉に含まれるような性質と同じような感じで。

例えば私がね、さっき書いたような性被害の話を男性にしたとして、(話したことはないけれど)大多数の男性からはこういう返事が返ってくるのだと思う。

「それは、つらかったね」と。

キモいオジサン、変質者、ロリコン、そういう人がいてもおかしくない、そういうオジサンって絶対いるよね、その前提で会話が進んでいくことに関して私は可笑しいと、感じる。

そして、同時に、女性である私と同じように、そこに”怒り”を感じることはないのだろうな、と察する。

私はこういう視野を持つ男性と話すたびに、生きてきた世界が違うのだということをいつも実感している。抱いてきた恐怖心の格差のようなものを。



なんで、生きているだけでこんな目に遭わなければいけないのか、という沸々と湧き上がる怒りや、悲しさのようなもの。そういうものを私は女性として抱えてきたし、同性の友人とも共有してきた。けれど、きっとこういう想いはネットでは、晒しあげられて、おもちゃにされるのだろうなという感覚も持ち合わせている。


神秘って、

主に母になった人に焦点を当てて書かれている本を最近読んだのだけれど、その中で妊娠初期の方の感覚を言葉にしていくという部分がある。

著者自身も、出産後の母の言葉や、子育て中の母の言葉というものは世の中にはあるけれど、妊娠初期の言葉が少ないと思って、という考えだったのだが、私自身も本を読み進めながら確かに、こういうお腹に生命が宿って、その胎児をどう思っているのか、みたいなことを今まで聞いたことがなかったなあと思っていた。

その本の中では、妊娠して、自分が自分でなくなっていく感覚を抱いたと言っていた人もいた。

世間では、まだまだ女性の身体や、出産について、もっといえば”母”という人物像に対しても、神秘的なものとして見る人が多いのだろうなと思う。

不妊治療をしている人への配慮だとか、そういうことの気遣いのほうがメインで、妊娠した人の声というのは、かき消されていってしまっているのではないかと、私は感じた。


こういった女性の感覚的な部分って、言葉にしにくいというか、人の数だけその感覚というものは違っているだろうし、世の中に対しても伝えにくい部分だなと思う。

“不思議な感覚”という言葉はすごく曖昧だけれど、女性性というものをもっと掘り下げて考えていった時に、この感覚を表現することを諦めてはいけないと、私は思っている。


例えば、スピリチュアル的な感覚とか、空気を読むみたいな感覚とか、人の言いたいことがなんとなくわかるとか、そういうもの。

これらを言葉にしていこうと思うと、「霊が見える」とか「エネルギーを感じる」とかそういう言葉を通っていくことになるのかもしれないが、”感覚”ということを無視され、表面上の言葉を切り取られ、嘘だとかどうとか、評価されているところをよくSNSで見かける。


でも、自分が少女であった時の感覚とか、成人した今の感覚とか、そういうものって本当に違っていて、そういう部分を男女共に想像し合えるようになったらいいなと、私は思っている。


これから

私は、これから女性としてどんな生き方をしたいのだろうって話。

そもそも、女性的に見られたいとか、女性としての美しさを表現したいみたいなことを思ったことはない。

そうやって表現することで、”まあや”としての魅力よりも、”女性”としての魅力として見られることがあまり好きではないから。


私は、男性性が自分の中に多いタイプだとは自分で思っている。

論理的な思考とか、メンタルとか、なんかそういう部分が。
だけど、僅かに”感受性”だけが女性である、みたいな。

だから、世界を見て、何かを感じて、こうして、文字を書けるのだろうと思う。

私は、恐怖心とか、悲しさとか、そういうただそこで怯えて、うずくまるしかないようなそんな感覚を、一つずつ拾い上げて言葉にしていける人間でありたいと思う。女性として。


私たち女性は、何かを言葉にすると、「これだから女は、」と言われることもあるかもしれないけれど、でも、言葉にできないような想いを言葉にする作業を、私はこれからも諦めたくないと思うんだ。

それは男性からの理解を得たいとかそういうことではなくて、ただ、私たちこうやって生きてきたし、今もこうやって生きているんだという証を残すように。

ヒステリックになること、感情的で言葉にするのが下手なのが女の特徴だと言われるかもしれない。でもね、怒りとか、悲しさとか、そういう大きな感情に至るまでの小さな感覚の積み重ねというものに蓋をしなくてもいいんだって、自分自身が言語化をしながらこれからも伝えていきたい。


やべぇ本

最後に、”女性であること”についてもっと踏み込んだものを書いてみようと思ったきっかけの本を。

“神秘って、”という章で書いたのもこの本のこと。

「母」を、解きほぐす。

社会的/政治的役割から「母」を解放し、手あかにまみれたその概念を捉えなおすために。
産後うつに陥った人、流産を経験した人、産まないと決めている人、養子を迎えた人など、社会に埋もれる「声なき声」に耳を傾けた、魂ほとばしる〈ルポルタージュ・エッセイ〉。

久しぶりに、良い!!!と感情が昂る本に出会えた気がする。
何が一番良かったかって、やっぱりフェミニズムの議論展開を行なっている本や、女性の身体論を取り扱っている本って、過激なんですよね。

男の所為で、男の乱雑さ、横暴さに女は怯えていて、とか、なんかそういう書き方をしているものが多かったり。

けれど、私が書いた”不思議な感覚”のように、言葉にするのが難しい部分、女性としての、語られていない部分を丁寧に紐解いてありのままの言葉にしているところがとても良かったのです。

これ、ちなみに子育てをしている男性へインタビューするシーンもあるのですが、それもまた良かったです。やっぱり目指すべきところというか、私たちがもっと共有しなければいけないことって、こういう何を思って、何を考えているのかという、感覚なんだよなあ、と改めて。


最後に

また、自分で自分のことを褒めさせて頂きますが、世の中にこんなにも女性であることと、男性へ対しての言葉にできない見えない壁のようなものをナチュラルに言語化している人いなくね?と。

いや、そりゃ探したら、そういう人はいらっしゃるのだろうけど。(どっちやねん)

でもまあ、このトピックって、脳内には私の思想としてあったものの、世間で出していくと、頼んでもいないのに色んな評価をされるものだと思って、避けていたので、今回書けて嬉しい限りです。

このnoteからも伝わっているとは思いますが、私は別に、男性をずるいとか、せこいとか、そういうふうに敵視したことってないんですね。

でも、会話をしていく中で、”わかってないなあ”と思うことはありますが。

このわかっていないなあって感覚って、所謂、男性が男性として男性社会で生きる上で感じてきたことと、私が女性として感じてきたことの違いなんですね。

こういう話って実際、異性の友人と話すことはほぼないですが、自分がこうして言語化していく作業を続けながら、ここでも書いたように感覚の共有というものが社会でできていけるようになればいいなと思います。


では、今日も見てくれてありがとう!


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