付属品から人間に戻れた日
私がこの世に生を成したのは秋。
昼の暑さが衰え、夜には心地よい風が吹く頃だった。
時は、日付をまたいで間もなく。
ものっすごい難産の末、やっと私は姿を現したが仮死産だった。
薄紫の肌をした、声も発しない、微動だにしない塊。
母親は、辛うじて意識が有る程度の状態。
両者待った無しの緊急事態だった。
通常なら、手を尽くしたが母親が息絶えてしまうか、あらゆる処置の甲斐なく私が呼吸も知らずに旅立つ、あるいは助かったとしても脳に障害を負う所だが、夜勤の産科医の他に、カルテ書きでたまたま残っていた産科医が居たため、ラッキーなことに産科医が2人居たのだ。
母親と私は、マンツーマンで処置を受ける事が出来、母親の身体はなんとか危機を脱し、私も早い段階で病院内に大きく、響き渡るような産声を上げることとなった。
本降りだった雨が小ぶりになった頃だった。
母親は、結婚前から、
「自然妊娠はかなり難しいから、どうしても子供が欲しかったら養子を迎えるしかないよ。」
と産科医から言われていた。
だから、母親も父親もそのつもりで覚悟していたらしい。
ところが、ひょっこり私を妊娠した。
「どうやって作ったの?」
と産科医がかなり驚いていたらしい。
人体は不可思議で神秘的だ。
そんなこんなで生まれてきた私だが、幼い頃から怖ろしく自我が強く、パーソナルスペースが広い人間だった。
幼子はみんな社交的で可愛らしいというのは偏見だ。
独りで居る事を好み、例え母親であってもベタベタ触られるのを心底嫌う幼子も居るのだ。
そう、私のように。
まぁ、大人になった今も無理なモンは無理。
その上潔癖症だから、母親も苦労しただろうが、私も外出するだけで疲労困憊だった。
(何故、世の中の大人は子供の顔を触りたがるのだ?その手は綺麗なのか?そもそも触る許しを請うたか?許可した覚えは無い!)
戦いの日々だった。
そんな戦いの日々は、母親によって終わりを告げた。
他者から伸びてきた手から身体を遠ざけようとすると、
「子供のくせに生意気な!」
と人前で殴られた。
母親の暴力が始まったのだ。
私のサンドバッグ生活が幕を開けた。
4才の頃だ。
母親は、専業主婦という職業でありながら家事が出来ない人間だった。
お寿司屋さんで働いてるのに魚がさばけない。みたいな感じだろうか。
そのくせ家におしゃべり仲間を呼びたがる。
「こんなに汚い家、みっともないでしょ!お前が毎日掃除しないからだ!」
と、何発か殴られ部屋の掃除をさせられる。
当時の私は5〜6才。
幼稚園から帰ってきて、部屋の掃除を始める幼稚園児って見たことも無いが。
(私、何か悪い事したのかな?)
と思うが、逆らうと再び殴られるから、殴られた痛みとショックで泣きながら掃除した。
汚いのは部屋だけでは無い。
食べ物でパンパンな冷蔵庫。しかも、賞味期限があやしい。
台所のシンクには山になった洗い物。異臭が酷い。
1回も使ったことの無い鍋や食器。場所を取るだけ。
溜まった洗濯物。洗濯機要らなくね?
掃除しないのに、多種多様に揃った、台所用洗剤、お風呂用洗剤、トイレ用洗剤。
「私が身体弱いの解ってるんだから、洗い物くらいしなさい!」
何発か殴られてから丸投げされる。
「私の身体を考えて洗濯くらいやりなさい!」
何発か殴られてから丸投げされる。
「私が身体大変なの解ってるでしょ!」
気が利かないと、私を何発か殴ってからお風呂の掃除を丸投げする。
身体の弱い、いつ死ぬか判らない人間が、せんべい食いながらワイドショー観てガハガハ笑うモンかね?
私が小学校低学年の頃。
殴られない日は無かった。
家事を丸投げするくせに、仕上がりが気に入らないとまた殴られた。
母親の機嫌が悪い時は、目が合っただけで殴られた。
ここまで来ると、家庭内ヤンキー。
自分のやりたい事が最優先で、その為なら邪魔くさい私を柱に縛りつけたり、裸足で玄関の外に放り出して鍵をかけたり。
「声出すんじゃないよ!ご近所に迷惑だからね!」
私は、食器を洗う事、ワイシャツの襟汚れを落とす事、声を出さずに泣く事が上手くなった。
前述した通り母親は婦人科系が弱かった為、私は独りっ子だ。
そのせいか、早い内から自分の部屋が有ったが、「自分のプライベートな空間」では無かった。
ノックもせずに入って来るのは当たり前。
私が不在でも勝手に入ってきて、本棚やタンスの中身、机の引き出しを漁っては気に入った物やマンガを持ち出す。
私が気に入って大切にしている物であったとしてもだ。
「死ぬ思いで産んでやって住まわせてやってるんだから、お前は私の付属品でしかないんだよ。オマケだよオマケ。生意気な事言ってんじゃないよ!」
これでもかと殴られておしまい。
いい大人が、
「これ貸して」
って言えないモンかね?そもそも部屋に勝手に入るか?
そう泣きながら思っていた。
昔からあったが、日常的な肉体的暴力に加え、精神的な暴力が増えてきたのはこの頃から。
小学校中学年の辺り。
「お前の父親は高卒で頭が悪いから、あんな会社しか入れなかったんだ。お前はあの父親の子供だからそんなに頭が悪いんだよ。」
「お前の顔はお前の父親ソックリで気持ち悪い。」
「お前の父親は仕事もろくに出来ないから給料少ないんだよ。」
「お前の父親は田舎者だから、私なんかと結婚出来る訳無いのに、感謝すら出来ない愚か者だ。」
私が父親にベッタリだったのが気に入らなかったのだろう。
母親が、私の目の前で父親を罵り始めたのもこの頃から。
その場から離れようとすると、
「どこに行く!」
と怒鳴られ、黙って聞いているしかなかった。
得意げに大きな身振り手振りをして、テーブル叩いたり、父親に詰め寄ったり。
母親は父親を罵る姿に酔いしれながら、その姿を私に見せつけた。
規模のちっちぇえワンマンショー。
友達と遊びに行くのも禁じられる事が多かった。
「何かあったらどうするの!」
確かに世の中の何が起こるか判らないけど、んな事言ってたら家の外になんか出られないよ?
友達が察してくれて、5人くらいで迎えに来てくれた事があった。
この人数で迎えに行けばダメとは言わないだろうという作戦。
無事に成功したのだが、
いざ出かけようと玄関で靴を履いていると、
「寒くなるかも知れないから、持っていきなさい。」
と差し出すだっさいセーター。
母親は本当にセンスもウチワも皆無。
「いや、要らないよ。」
が言い終わる前に友達の前でぶっ飛ばされた。
(マジかよ。友達の前で殴るか普通?口ん中鉄の味するし)
友達がフリーズしている中、その内の1人がだっさいセーターを受け取り、
「行ってきまぁす!」
と連れ出してくれた。
私は、学校に行っている時間とお風呂に入っている時間と寝る時間以外は、母親に監視され、罵られ、殴られ、蹴られた。
もう、慣れてしまっていた。
麻痺してしまっていたと言った方が近いかな?
この頃は、他所の家庭もこうなのかな?みんなこうやって勉強させられてるのかな?と考えるようになっていた。
母親も強烈だったが、母親の母親、母親の妹2人も酷かった。
母親の母親は、私を見る度に、
「アンタは勉強も出来なければ顔も父親似で、本当にろくでもない。あぁ、嫌だイヤだ。ウチの子じゃなくて良かった!」
修学旅行のお土産を持って行っても、
「アンタからもらっても迷惑だから、もう買ってこないで。」
人間って肉身にこんなに残酷な言葉が吐けるのかと正直ビビった。
母親の妹2人も、
機嫌が良ければ私を罵りバカにし倒し、機嫌が悪ければ私をシカトした。
もう「私」という存在が嫌なのだろう。
祖父だけは優しくしてくれたのが救いだ。
中学に入り、部活にも入ったから、家に居る時間が短くなった。
「これで少しは救われたね!良かったね!」
ソレはとっても甘い考え。
自分の子供は、自分の付属品でオマケだと思っている劇薬親の場合は、家での束縛がより強力になるんですね。
カバンの中を勝手に漁られて、授業中に友達と回してた手紙を勝手に読まれたりするんですよ。
ドン引きでしょ?
でもね、劇薬親からしたら普通の事。
手紙は学校のゴミ箱に捨てて帰ると学習しました。
試合前で帰宅が遅くなると、
「どこで何やってた!」
(お帰りじゃねぇのかよ)
「試合前だから。」
「いつ試合なのよ!どうせ出たって負けるくせに!早く夕飯作りなさい!」
「はぁ?早く帰って来てたなら自分で作ればいいじゃん。」
「私は疲れてるの!遊んできたアンタが作りなさい!」
「私も疲れてるから、少し寝る。」
当たり前に殴られる。
「気ぃ済んだ?じゃあ寝るから。」
「私はお腹空いてるのよ?作ってあげようと思わないの?」
「私は疲れて眠いの!他人の空腹なんか知らない!」
結局、その日は翌朝まで起きなかった。
朝、シャワーを浴びて登校し、部活を終えて帰ると、私の衣類が玄関前の道路に散らばっていた。
(マジかよ。ここまでするか?)
避け切れずについた靴跡やチャリのタイヤ跡。
(泣いたら負けだ)
と涙を堪えて、1つひとつ砂を落としながら拾い、玄関を開けた。
「お帰りぃ~」
ニヤニヤしながら普段ならしないのにお出迎えする母親。
真顔のまま母親の目を見て、
「ただいま」
と言う私。
思ってた反応と違ったらしく、母親は混乱。
制服のまま、洗面所で靴跡やタイヤ跡を手洗いし、洗濯機を回して自室に向かった。
自室は、本棚も机の上もグチャグチャ。タンスも中身が全部床に散らばっている。
(どこまでやれば気が済むんだアイツは)
制服を着替え、部屋の整理を始めた。
「夕飯どうする?何が食べたい?」
「部屋、片付けなきゃいけないから要らない。」
「えぇ〜、お肉買ってきたよ?好きでしょ?」
「自分で食べれば良いじゃん。あ、洗濯終わったからどいて。」
その後も母親は、気持ち悪い猫撫で声で私に話しかけたが、私は声を発さなかった。
(オマエに友達が居ないのは、オマエが感情のコントロールが出来ないからだよ)
まぁ、それ以前の問題だけど。
そして、学校では保健室組になった。
経緯は覚えていないのだが、殴られた跡や言動、3者面談の母親の言葉に疑問と危機感を感じたのだろう。
教室と保健室を行ったり来たり。
あの時の私は、中学校時代を楽しめていたのだろうか?
高校に進学し、学校が徒歩圏でなくなった。
母親は乗り物が苦手だから、ここまで来る事はそうそう無い!
学校に居る間は、大きく呼吸が出来た。
今思えば、母親はパニック障害なのだろう。
良い医者に巡り会えないのは、日頃の行いが劣悪だからだ。
同情はしないけどね。
この頃から母親に殴られる頻度が下がった。
代りに、
口汚く罵られる事が増えた。
そんなに気に入らないなら、産まなきゃ良かったのに。
私、アンタのアクセサリーでもステータスでも無いんだよね。
で、中学同様保健室組。
やっぱりさぁ、殴られた跡とか言動とか、よく見てるよね。
お陰で生き延びてます。
中学、高校と周りの大人に守られて、無事に大学へ進学。
世界が一気に広がった。
一般教養で受講した法学の先生には、
「君のレポートは面白いね。法学部来ない?」
と熱烈なオファーをもらったり。
科目は忘れたけど、
「君のレポートはスルスル読めるし頭に残る。君は物書きになった方が良いよ。」
と言ってもらえたり。
自分の考えや発言を高く評価してもらえる事が多くなった。
家でレポートを書いていると、博識ぶりたい母親が口を出してきたが、
「アンタ、父親の事「高卒」ってバカにしてたけど、大学中退のアンタも「高卒」だからね。高卒に大学のレポート書けると思ってるの?講義も出てないのに?」
と言ったら、二度と口出ししてこなくなった。
何か言ってきても、手を上げるどころか口論になる前に論破。
うん、これは法学部が欲しがるわな。
就職を期に母親と離れ、家庭環境が劣悪だった事を認識出来た。
物理的な距離をキープする事を心がけている。
何年も会っていないうちに、母親からの洗脳が解けてきている。
長きに渡る肉体的、精神的な虐待によって、精神疾患を患ってしまったが、周りの大人達に守られたおかげで生命は手放さなかった。
これは大きな意味合いを持つと思う。
当時の大人の皆さん、ありがとうございます。
結婚や子供を産む事も考えた時期もあったけど、母親と母親の母親を見て、自分も繰り返してしまいそうで、負の連鎖があまりにも恐ろしくてやめた。
今は、猫達に囲まれて生きる。
私が辿り着いた、私らしい生き方。
おわり
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