【演劇評】 《あいちトリエンナーレ2019》ドラ・ガルシア〈レクチャーパフォーマンス『ロミオ』〉、ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』について
《あいちトリエンナーレ2019》(以下《あいトリ》と略す)
《あいトリ》は2019年で幕を閉じ、2022年から名称を《国際芸術祭『あいち2022』》に変更され、新監督に片岡真美が就任。新生の芸術祭としてスタートを切ることになった。
《あいトリ》最後の開催となった2019年《パフォーミングアーツ『情の時代』》。
演劇祭として不幸な幕となった2019年であった。政治的圧力、右翼からの襲撃と脅迫、それに同調するかのような右派政治家の発言、世論の不穏な動き等々、記憶に留めておくべき《あいトリ》最後の〈表現の不自由展〉であった。
わたしが《あいトリ》に行ったときには脅迫の対象となった展示は観客の安全のため閉鎖され、見ることはできなかった。
わたしが鑑賞したのは三公演。
鑑賞した三公演は、
ドラ・ガルシア〈レクチャーパフォーマンス『ロミオ』〉
ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』
ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ+エンクナップグループ『幸福の追求』
上記三公演のうち、興味を覚えた
ドラ・ガルシア〈レクチャーパフォーマンス『ロミオ』〉
ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』
について、印象を述べてみたい。
ドラ・ガルシア〈レクチャーパフォーマンス『ロミオ』〉
(ドラ・ガルシア〈レクチャーパフォーマンス『ロミオ』〉=《あいトリ》より)
ロビーには入場を待つ女性たちで溢れていた。観客のほとんどが女性といってもいいだろう。わたしは本公演の予備知識ゼロである。これから何が始まろうとしているのか、観客としては少数派である男性としてのわたしは場違いな気がし、存在を消したくもなった。
タイトルの“ロミオ”とは、冷戦時代、東独が西独に送った“男性諜報員”たちの名称である。西独の孤独な女性と恋愛関係を結び、彼女たちをセックスで惹き寄せ、西独の情報収集をする男たちのことである。
《あいトリ》での“ロミオ”の役割は、来場した観客(性別、年齢を問わない)に話しかけることで、見知らぬ他者との「愛」を築き上げるパフォーマンスを行うこと。いわば、9人の若い雇われ“ロミオ”(みんなイケメン男性だった)たちのパフォーマンスである。
なるほど、観客の大多数が女性なのは、こういうことだったのかと、この時点での、とりあえずの納得をわたしは持った。
この日のパフォーマンスはレクチャー・パフォーマンス。作品理解を深めるための質疑応答である。プログラムには「さらなる撹乱をもたらす場になるはず」と書いてある。時間に制限はあったものの、女性観客からの9人のパフォーマーへの質問が数多くなされた(質問者は女性に限定はされていなかったが、結果として女性のみだった。男性は手があげづらい雰囲気、あるいは手をあげる勇気のなさ?)。
「あなたにとり愛とは、孤独とは」「あなたにとり他者に声をかける意味」「声をかけた後の心理的変化」「それはあなたの日常にどのようにフィードバックされたのか」等々、観客の女性たちからの質疑の聡明さにわたしは感動した。それに反し、パフォーマーの男性たちの応答はどうだったのか。質問を投げかけた女性たちは失望したのではないかと思った。質問者の中には、ジェンダーに興味を覚える女性もいたに違いない。男性であるわたしですらガッカリしたのだ。
それだけではない。ドラ・ガルシアを含めパフォーマーたちの「孤独」、「愛」という概念に、わたしは馴染めなかった。それは、孤独を愛の不在、その反映としての社会病理であるかのように捉えることの違和感である。質疑応答を聞きながら、韓国の女性作家ハン・ガンのエッセイ集『そっと静かに』を思い出した。その中に、先生の「父親が音楽を好まない人で、家の中にいつも流れていた沈黙が、逆に自分の音楽性を養った」とある。
孤独は身体としては単一(ひとり)なのだけれど、単一であるがゆえの自己との対話の豊かさを思ってみた。
対話のなかに複数の自己の存在を見出す(創出する)ことができる。孤独の身体は単一のように見えるけれど、複数の自己が流れる身体でもある。複数でいるよりも、〈ひとり〉でいることの方を好むわたしには、「孤独」が「社会病理」へと移行することを否定できないにしても、〈孤独〉を〈愛の不在〉と結びつけることに違和感を抱いたのである。単一のわたしの中に、複数の自己が尊重し合い共存するという、豊かさの愛もあるはずである。これは「自己愛」「自己の慰め」とも違う。強いて言うなら、自己内の「互酬愛」、「愛の好感・交換」であり、複数の自己による対話と言えるのではないか、と思ったのである。それゆえに、「孤独」が「愛」の対立概念とまではいえない。そう思ったのである。
ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』
(ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』=《あいトリ》より)
本作品ついて述べる前提として、本作品の理解を深めるため、《あいトリ》のwebから作品解説を引用させていただきたい。
以下は鑑賞後のわたしの印象である。
(ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』=《あいトリ》より)
子供たちと創作するというのが、CAMPOからのミロ・ラウへの上演条件である。
初演時の子供たちが成長したため、《あいトリ》の出演者は、初演時から二代目の子供たちである。
年齢は11歳から15歳までの6人。男女半々。それに加え、成人男優(主に子供たちと共に演劇制作を行う演出家・俳優)がひとり。少年・少女の中に成人がひとり加わることになる。
本演目はベルギー社会を震撼させた少女監禁殺害事件を題材としている。少女たちの監禁とレイプ、そして殺害である。
救出された少女は2人。震撼とする事件だが、これを、少女を含めた子供たちが再現することに、いくぶんスキャンダラスな要素を感じる。正直言って、子供たちのトラウマになりはしないかと心配になるのだが、子供たちには時間をかけ、当時の報道や証言を見せ、歴史的事象の把握と分析、そしてトレーニングを積ませたという。さらに心理カウンセラーもつけたという。
(ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』=《あいトリ》より)
ミラ・ロウと演者たちが目指したのは、演劇による事件の“リアル”な「再現」ではない。
それよりも、“ゲーム”の要素を取り入れた「再現」だという。公演の導き手は先に述べた成人の男優。導き手がいることで、子供たちは安心するという。
成人男優は子供たちの演劇進行を修正し、時には質問し、指示を出す。たとえば、「将来成りたいことは?」「〜のような気持ちになって」「出生児の病気は?」etc。
演劇へ向かうのではなく、子供たちの日常に降りることで凄惨な事件に心を開いていく。観客であるわたしはリハーサルを見ているような気になりもするのだが、それよりも「再現」ゲームという手法演劇への興味が湧く。
(ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』=《あいトリ》より)
演劇の進行とともに、「再現」ゲームとは、演者たちのゲームであるばかりではなく、わたしたち観客も含めた劇場にいる全員に、資料の読み込みや時代の解読を要請する演劇であることがわかってくる。間接的ではあるけれど、観客参加型演劇なのではないかと思えてきた。
参加型とはいっても、出演者が観客にアクションを起こすとか、観客が会場内を移動し演劇に関与するというのではない。観客は座席にいながら自己の思考は会場を越境し、事件の中枢(本公演の場合、ベルギーの植民地であったコンゴの悲劇、ベルギー人によるコンゴ人虐殺、本作品の「再現」であるレイプ殺人犯(ベルギー人男性)の出身地がコンゴであったという歴史性)にも及ぶ。「移動する思考」という参加型であった。
本公演を鑑賞(=移動する思考)し、子供たちと一緒に「再現」ゲームに参加したという一体感に、わたしは驚きを隠せなかった。終演後の幾度ものカーテンコールは、子供たちの演技に向けた拍手に止まらず、演者と観客との共感・共観の拍手だったのではないかと思えた。
これまでにない演劇体験であった。
わたしは公演終了後、会場付属の販売ブースに立ち寄った。《韓流女性文学》のブースがあった。平積みになった若い世代の韓国文学。簡素で軽やかな色調の表紙。手にとり幾冊か拾い読みすると、これまでに経験したことのない特有な言語空間に引き込まれた。翻訳者の文体や言葉の選び方も影響しているのかもしれないのだが、神田神保町の書店でプルースト『失われた時を求めて』(新潮社刊)の1ページ目を開いたときの鮮烈な印象と似通ったものがあった。本稿でも触れたハン・ガンの小説、とりわけ『菜食主義者』『ギリシャ語の時間』は衝撃的だった。
もしかすると、《あいトリ》に行っていなければ、わたしはいまだに《韓流文学》とはほとんど触れていないのかもしれない。このことを付記し、この稿を終わることにしたい。
(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)
ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』についての動画