【映画評】 ジェレミー・クラパン『失くした体』 主語としての「手」
(1)
フランスのバンド・デシネをベースとした、日本のアニメと一味違う画とショットの魅力。ショット構造はどちらかといえば実写に近い。そして、それ以上に素晴らしいのが脚本。日常の会話の中から気持ちが立ち現れてくる。
(2)
作品内でも言及されているジョン・アービング著『ガープの世界』やセルジオ・レオーネ監督のマカロニウエスタン『続・夕陽のガンマン』(1966)。本作に頻出するフラッシュバックは、『続・夕陽のガンマン』の影響を受けているのではないだろうか。とりわけ、モロッコでの主人公の幼年期の映像に魅了されたし、青年期の手を失うまでのフラッシュバックはまるでサスペンスの時間のようで、わたしの目はフレームに釘付けになった。
(3)
ジェレミー・クラパンの長編第一作である『失くした体』(2019)の興味深さの一つに、パリを舞台としていることにある。パリとはいっても、絵葉書やガイドブックで見る、美しい、ベルエポックの充溢するパリではない。おそらく、ここはパリ、と言われなければ、本作の舞台がパリであると気づく者はそれほど多くはないだろう。正確に述べるならば、舞台はパリの外れ、もしくはパリ郊外と言えばいいだろうか。フラッシュバックの映像から推察すると、主人公ナウフェルは、モロッコの首都ラバトに住む比較的裕福な家族出身と思えるのだが、ある時、両親を交通事故で失くす。ナウフェルはピアニストや宇宙飛行士を夢見る少年だったのだが、家族を失ったナウフェルはモロッコを離れ、パリ郊外に流れてきたという設定なのだろう。映画内では、その説明はない。
パリでいう郊外とは、移民のような貧しい人たちが住む、いわばパリ市街には住めない人たちの領域である。郊外のことをフランス語でbanlieueというのだが、banは追放、lieuは場所。つまり、郊外とは、追放された場所を意味する。ナウフェルも追放の身となった、とわたしは理解した。ナウフェルの顔も、北アフリカ、たとえばモロッコ人の血が混ざっているような気もするのだが、はたしてどうなのだろうか。わたしのわずかなフランス滞在では不明である。
邦題の「失くした体」。原題は「わたしは体を失くした(J’ai perdu mon corps.)」ということなのだが、この場合のわたしとは、手のことである。映画冒頭、ナウフェルは事故で右手を失う。その事故が何だったのかが判明するのは終盤のことなのだが、映画が向かう終盤の一つに、つまり、いくつかのテーマの一つに不慮の事故がある。具体的には、材木の電動裁断機で左手を切り落とすのである。つまるところ、本作のメインテーマは、切り落とされた右手であるわたしが、自分の体を探し求める、という物語である。手の表現で面白いのが、ナウフェルの幼年期の手の映像。モロッコの砂浜での手からこぼれ落ちる乾いた砂粒、室内の窓ガラスからの入光を背景とする手、ハエを追う手。ハエのイメージは、映画終盤にいたるまで幾度も出現する。そして、ピザの配達を契機に、配達先の女性に淡い恋心を募らせるラブストーリーでもある。
本作は体の部分としての切断された右手ではなく、右手が探している「残りの部分としての体」という、未知の視点への転換を呈示している。幼年期のモロッコ・アバトでの世界へ向けての手、海岸で砂を掴む手、蠅を追う手、ピアニストになることを夢見た手、青年期のパリでの生活の手。つまり、主人公のナウフェルの、世界への触覚としての手なのだ。手は、人間としての存在そのものなのである。
このイメージあふれる作品を繰り返し見たいと思う。脚本も素晴らしく、入手できないものかとネットをググッていたら、同名の小説が出版されていた。作者の名が、本作の共同脚本であるギローム・ロラン。表紙に「adapté au cinéma par Jérémy Clapin」と書いてあるので、この小説が原作としてあったということなのだろうか。もしくは、新海誠アニメのように、アニメ制作と同時並行で小説も執筆されたということなのか。5.5€。購入したいとも思うけれど、送料がそれ以上にかかるからやめておこうか。
(4)
ジェレミー・クラパンは短編『Skhizeinスキゼン』(2008)で一躍注目を集めたアニメ監督なのだが、すでにその時点で、アニメ表現における中心問題である「身体」の再現性に注視していたようだ。そういえば、アニメで最初に目が向くのは登場人物の身体だ。これまでは動きが不自然だとか、精細でないとか、その程度にしか考えてこなかったけれど。アニメにおける身体の再現性の問題のことは考えなかった。しかも、身体という総体ではなく、身体部分からの眼差し。本作においては切断された「右手」である。マイクを掴みカセットに録音する右手、マイクコードを振り回し、マイクを回転させながら録音する右手。それがなければ両親の不慮の交通事故は起きなかったであろう右手。それが自己だけではなく他者の運命にも介入する右手。不可分としてあるマイクと右手。ところが、終盤における右手を離れたマイク。マイクはビルの屋上の床に置かれ、ビルから建設クレーンに飛び移る右手を失った身体による運動がカセットに集音される。映画「失くした体」の主語である「右手」は、述語である「体」からも切り離されるのかもしれない。そして、互いに引きあったナウフェルとガブリエルは別々の人生へと向かうのである。この終盤は、アニメであることを忘れ、まるで実写を見ているような気にもなった。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
ジェレミー・クラパン『失くした体』予告編