【映画評】 ジョアン・ペドロ・ロドリゲス & ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ共同監督『追憶のマカオ』 桃色に染まる脳細胞
世界は内部と外部、それらの境界、そしてそのどれにも属さない周縁で構成されている。とりあえずはそう規定していいだろうし、またそうであるかぎり、たとえ歪であるとしても世界は調和している。だが、そんな世界に、なにものかが貫入・陷入すると事態は一変する。ジョアン・ペドロ・ロドリゲス & ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ共同監督『追憶のマカオ』はそのような映画である。
映画の冒頭、ボーカルに合わせてくねらせる身体と唇の醸し出すいかがわしさ。ボーカルとはジェーン・ラッセルが歌うジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督『マカオ』の挿入歌「You Kill Me」。ジェーンの歌に合わせて口パクするのはキャンディという名のオカマ。幻影としてのジェーン・ラッセルの妖艶な身体と性転換者キャンディの身体。『追憶のマカオ』は、冒頭から二重の身体という呪縛として呈示される。
友人からの連絡で30年振りにマカオを訪れた共同監督のルイ・ゲーラ・ダ・タマ。着いた途端、のっぴきならぬ奇妙で恐ろしいことに巻き込まれているような様相。『追憶のマカオ』はドキュメントなのかフィクションなのか。この映画はマカオの市場を撮ったドキュメント『紅い夜明け』の怪しげなハイヒールへの言及でもあり、ハイヒールを『追憶のマカオ』へと貫入・陷入させることにより、『紅い夜明け』の資料(ドキュメント)となると同時に、『紅い夜明け』は『追憶のマカオ』をフィクションの一部として内包することにもなる。しかしこの対応関係、あるいは包含関係は極めて曖昧である。それは両作品が、いわば抜き差しならぬ関係で結びついているようでもあり、また、その共犯的関係が決定不可能としか言いようがないようにも思える。『追憶のマカオ』の殺人はフレームの内部で行われているのか、それとも外部でなのか。映画への遊戯的なアプローチとしての殺人に過ぎないのか。語り手であるルイ・ゲーラ・ダ・マタの身体の不在といくつかの死体。生きた身体としては冒頭、ただ一度きり呈示されるに過ぎないキャンディの身体。そして波止場に転がるハイヒールの片方。それは危機に瀕しているという彼女でもあるのだが、身体を欠いたルイ・ゲーラ・ダ・マタの声は、彼女は先ほどまでそこにいたと、映画を見る者をさらりと撹乱する。
この映画は夥しい声と映像の資料(ドキュメント)なのか物語(フィクション)なのか、それとも名づけることの不可能なフィルムなのか。おもわず〝ファンタズマ〟と言ってみたくもなるのだが、そう口ずさんだところで、掌からボロボロとこぼれ落ちてしまうものがあることに気づくのが落ちである。とこのフィルムの内部にも外部にも、そしてその境界にも周縁にも接近することができないわたしは、しかしまあ、とんでもない映画を見てしまったものだなあ。
彼らの作品を同志社大学寒梅館ハーディーホールで初めて見た2013年4月18日。その日のわたしの狼狽振りは相当なものだった。わたしの思考は定まることはなく、言葉の断片を書き散らすしか術はなかった。
2015年7月9日、ハーディーホールで上映された『オデット』『麻雀』について書きたいのだが、狼狽は未だ止まず、何から書き始めていいのか判然としない。とりあえず、『オデット』は 妊娠願望のオデットの、既成社会(既成体制はもちろん、現代の生殖医療も含めて)をディスる両性具有への変身譚、「背中から子どもをこしらえる」ことであり、『麻雀』はチャイナドレスを着たウィッグの女を追尾するルイの乗用車の走行音のフィルム・ノアールである。今はそう書くに止めようと思うのだが、追尾する車の走行音そのものがフィルム・ノアールである映画が、これまでにあっただろうかという驚き。『麻雀』を爆音映画祭で鑑賞できれば、新たなフィルム・ノアール(=走行音)を発見できるかもしれない。フロントガラスにぶら下げられたお守りが、いまもわたしの頭の中で揺れている不気味さ。またもや、とんでもない映画を見てしまったものだなあ。と書きながらも、薄明とも暗闇とも、または白昼のぎらぎらと照りつける太陽の下かも知れぬ思考の撹乱の中で、わたしは2人のジョアンと格闘し、その格闘する様は快楽と紙一重であり、脳細胞は次第に桃色に染まろうとしている。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)