【映画評】 ジョエル・カルメット&オリヴィエ・バウアー『ことばの風』を想う
日本人にとり、ニコラ・ブーヴィエは『日本の原像を求めて』(原題)Chronique japonaise(1975刊、邦訳1994草思社刊)の著者としてよく知られたスイス人の作家、写真家である。
彼は24歳のとき、友人である画家のティエリーと行き当たりばったりの旅にでた。それも愛車であるフィアットに乗り、ジュネーブから日本に向け、陸路、ひたすら東へと向かう旅であった。
これをフィルムに収めれば壮大なロードムービーになったのに。
ジョエル・カルメット&オリヴィエ・バウアーがニコラ・ブーヴィエを撮ったフィルムがある。
『ことばの風』(原題)Le vent des mots(1999)。
残念だが、ブーヴィエの日本への旅を記録した映画ではない。もしそうなら、ブーヴィエのロードムービーになったのだけど。
繰り返すが、とても残念!
『ことばの風』はブーヴィエがこの世を去る三週間前、彼の自宅であるジュネーブでのインタビューを中心に編まれた映画である。
ブーヴィエは紀行作家とみなされることが多い…わたしだけがそう思っていたのかもしれない…。
ところが、本作品を見て分かることなのだが、彼は単なる紀行作家なのではなく、世界とは言語であることを示そうとした作家であるということだ。
事物に言語を与えることで言語が事物の本性を見出す。それが世界を構成するということだ。それでいて、事物と言語とが、互いに近付き難く離れているということ。事物と言語との非・親和性、世界を語ることの困難、それを、〝旅をする=世界を記述する〟ことで体現する。これが映画『ことばの風』の示すところとなっている。
ブーヴィエは述べる。「旅の理由はいらない。すぐにわかるはずだ。旅は旅であるだけで十分なのだから。自分が旅を組み立てるのだと思ってはいても、気がつけば自分のほうが旅に組み立てられては、分解されるようになっている。」(ニコラ・ブーヴィエ『世界の使い方』(原題)L’usage du monde(1963刊、2011山田浩之訳・英治出版刊)。
目の前の事物を言語で記述し、言語によって旅人は解体される。それが旅である。
コロナ禍が終息、または収束したら、わたしも旅に出て、土地を記述する作業を行ってみたい。記述の方法はなんだっていい。言語、写真、ビデオ……。
海外でなくても、わたしの住む地域に近い、たとえば魅力的な島が点在する瀬戸内の旅。安い民宿に宿泊しながら、一週間でいいから旅をしてみたい。
(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)