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映画の扉_cinema

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どんなに移動手段が発達しても世界のすべては見れないから、わたしは映画で世界を知る。
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#映画評

《映画日記22》 フラハティ / 台北映画日記 / ほか

(見出し画像:ロバート・フラハティ『モアナ 南海の歓喜』) 本文は 《映画日記21》アヌシュカ・ミーナークシ、イーシュワル・シュリクマール/スコリモフスキ/ソクーロフ/ほか の続編です。 この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であ

《映画日記21》 アヌシュカ・ミーナークシ、イーシュワル・シュリクマール/スコリモフスキ/ソクーロフ/ほか

(見出し画像:『あまねき旋律(しらべ)』) 本文は 《映画日記20》染谷将太/アドルノ/ワン・ビン/三宅唱/ほか の続編です。 この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承ください。 * ドキュメンタリーのはじまり

【映画評】 ミヒャエル・ハネケ『ファニーゲーム』

(見出し画像:ミヒャエル・ハネケ『ファニーゲーム』) 監督のミヒャエル・ハネケ(1942〜)はドイツで生まれオーストリアで経歴を開始し、主としてフランスで仕事をしている。ウィーン大学卒業後、映画批評家を経てドイツのテレビ局で編集・脚本家、舞台演出を手掛ける。数本のテレビ映画を製作している。 1989年、初の長編映画『セブンス・コンチネント』を製作。1992年に長編第2作目となる『ベニーズ・ビデオ』、1994年に『71フラグメンツ』を発表。この3本は「感情の氷河化三部作」と言

《映画日記20》 染谷将太 / アドルノ / ワン・ビン / 三宅唱 / ほか

(見出し画像:ワン・ビン『鉄西区』) 本文は 《映画日記19》パリの映画日記 の続編です。 この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく、「outdated遅評」であることをご了承ください。 * 染谷将太『シミラー バット ディファレント』短編(2013)

《七里圭作品・鑑賞日記》 (Vol.4)『闇の中の眠り姫』

本文は《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.3)小品集の続きです。 2014年6月14日 『闇の中の眠り姫』@立誠・シネマ・プロジェクト ここで私が綴る言葉は、本文の後半に、記憶にまつわる私的な感情や経験の吐露を含むもので、必ずしも公にすべきではない内容もある。そのため、『闇の中の眠り姫』の作品論とはいくぶん位相を異にする言説となっている。 七里圭作品を知る者なら、その代表作として、どのような作品を思い浮かべるだろうか。私にとっては、『眠り姫』ということになる。その理由は簡

【映画評】 小森はるか『かげを拾う』 「影」から「かげ」へ、レイヤーとなる被災地の光景

(見出し画像:小森はるか『かげを拾う』) 小森はるか『かげを拾う』(2021) (メモ1) 「越路山」は「こしじやま」と読むのか「こえじやま」と読むのか?  越路山の名の由来をわたしは知らないが、中世の東街道が山裾を回り込むようにあったため、「あの山を越えると路がある」と言ったことだろうか?と書かれた紹介webがある。信じていいものかは不明である。そのwebには、越路山を八木山と呼ぶようになったのは、仙台の豪商・八木久兵衛が野球場などの施設を作った昭和になってからのよ

【映画評】 加納土監督『沈没家族 劇場版』

(見出し画像:加納土監督『沈没家族 劇場版』) ボク(加納土監督)が1歳だった1995年、当時23歳だったシングルマザーである母・穂子が、「いろいろな人と子どもを育てられたら、子どもも大人も楽しいんじゃないか」の考えの元、共同で子育てをしてくれる「保育人」募集のビラを撒いたことから始まったのが「沈没家族」である。「沈没」の名は、当時の政治家が「男女共同参画が進むと日本が沈没する」と発言したことに母・穂子が腹を立て命名したとのことだ。 加納土監督によれば、「ボクが育った沈没

《映画日記18》 三宅唱・中短篇集『無言日記2014』/『八月八日』/『1999』/ ほか

(見出し画像:三宅唱『密使と番人』) 本文は 《映画日記17》記憶を復元する(Vol.2)蔦哲一郎/中村拓朗/イ・チャンドン/ジョナス・メカス/ほか の続きです。 この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 また、地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承く

《七里圭作品・鑑賞日記》 (Vol.3)小品集『時を駆ける症状』『ASPEN』『To the light』〈〈自己〉を見る自己〉

(見出し画像:七里圭『To the light 2.0』「Kei Shichiri HP」から) これは《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.2)の続きです。 2014年6月8日 七里圭特集《短編作品集5篇》@立誠・シネマ・プロジェクト 各作品1000字程度に収めました。 * 『時を駆ける症状』(1984)8㎜*デジタル上映 七里監督が、高校の文化祭上映に向け撮った初の監督作品である。 タイトルから誰もが想像するであろう筒井康隆原作による大林宣彦『時をかける少女』(198

【映画評】 深田晃司『ほとりの朔子』 湿度、エロスの映画

これからどのようなことが起きようと私はすべてを許すことにしよう。これまで、このような寛容を私は持ち得ただろうか。 暗闇の中で列車の走行音の持続があり、それからしばらく目の前には田舎の長閑な車窓風景が流れる。 少女が夏の光を浴び、列車の揺れにうたた寝をしている。 列車が停車し、「着いたよ」、と女の柔らかなオフの声が少女を目覚めさせる。 映画がここで終わってくれても私は満足だった。これから何かが始まるのだが、その始まりが何であろうと、そして110分後には終わるのだという予

《映画日記17》 記憶を復元する(Vol.2)蔦哲一郎/中村拓朗/イ・チャンドン/ジョナス・メカス/ほか

(見出し画像:ジョナス・メカス『Sleepless Nights Stories』) ある月の初日に書いた映画日記を、うっかりその前月の映画日記に上書きし、前月の記録がそっくり消えてしまった。 そこで、その月の私のツイートと記憶を頼りに、失った記録の復元を試みた。おそらく1/3くらいの復元となっただろうか。時系列による復元は無理なので、映画タイトル別・項目別復元を試みた。 今号はVol.2(最終回)です。 本文は 《映画日記16》記憶を復元する(Vol.1)メカス/ホアン

《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.2)『DUBHOUSE:物質試行52』

(見出し画像:七里圭『DUBHOUSE:物質試行52』) これは《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.1)の続きです。 作品タイトル以外に鑑賞した日付と会場を付した。それは、七里圭作品においては、同名の作品であっても、上映会場により内容が異なることもあり、また、上映形態や会場の光や音の回り方による印象の違いがあるからである。その意味で、七里圭作品ではタイトル、日付、会場は不可分である。 2014年6月5日 『DUBHOUSE:物質試行52』16分(2012)@同志社寒梅館ハ

【映画評】 蔦哲一郎『祖谷物語ーおくのひとー』 “上昇/下降”から「不在の映画」へ

(見出し画像:蔦哲一郎『祖谷物語ーおくのひとー』) あらかじめ附置されたイメージがただただ音響とともに流れてゆく。その行き着く先はモンテの破裂。ここには未知なるもの、つまりショットという暗闇がない。音響が暗闇を創出するわけでもない。音響はすでに暗闇にある。附置されたものの既存を確認する作業は虚しい。 これはアミール・ナデリ『山〈モンテ〉』(2016)の印象なのだが、この欧米的な「山」のありようと日本的な「山」の容態との違いに考えさせられた。日本的な「山」の容態とは、蔦哲一郎

《映画日記16》 記憶を復元する(Vol.1)メカス/ホアン・シー/アルフォンソ・キュアロン/ほか

(見出し画像:アルフォンソ・キュアロン『ローマ/ROMA』) 本文は 《映画日記15》濱口竜介の短・長編/ジャン=マリー・ストローブ/ファスビンダー/クルーゲ/ほか の続編です。 この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることを