子供をダメにする?
子育てや教育は葛藤である。
私の子は一人なので、常に初体験かつ一度きりの経験である。眼の前の子供は愛おしい。中2の男子で憎たらしいけど全く圧倒的に愛おしい。
しかし、彼との関わり方は随分理想とは違う。
例えば、私は漠然と「子供の自主性に任せている親」というのが格好良いと思っていた。子供が少し位はみ出したって、悠然と静観している、しかしポイントでやんわり子供をたしなめる、それでいて子供とは心が通じ合っている、そんな上品な母親に、私はなりたかった。
しかし、はっきり言って真逆。
これは息子の個性とも関係があると私自身は思っている。
息子は基本的に受動的。あと段取り苦手。
放っておいたら一万年でものんびりしていそうである。本人には言えないが「ドラえもん」ののび太に似ている。あと妙に打算的な所が息子にはある。
私は仕切り屋短気タイプ。ということで、のび太のお母さんみたいに「勉強しなさい!」と言う事になる。
しかし、わたしの場合は、のび太のお母さんよりたちが悪いと思う。何と具体的に「どの位、どうやって、勉強をやりなさい」ということを息子に言い始めたのである。手取り足取り、言い換えればがんじがらめである。仮に、私が同じ事をされたら、その辺にあるものをぶちまけて、挙げ句グレるであろう。
しかし、息子は意外と従順であり、この状態が続くことが多い。続かないこともあるが。
それでも母親というのは、あきらめない。息子は書くのが苦手なので、学習箇所をコピーして持ち歩いたり、用紙に書き写したりして読ませたりしている。そうすれば息子は少なくともその時間は学習する。その事実が大事だと思っている。ただ、まだ私が見ていないと能率は下がっている。そうして一ヶ月、再試まみれの漢字のテストが一発合格出来るようになってきた。
そこで、息子が嬉しそうに答案をみせてくれた時のことが思い出される。やっぱりという感じであった。単にボタンの掛け違いが悲劇を生むことがある。学習の場においても。息子の場合は「覚える方法」と「時間」といったところだろうか。
それから息子は少し自信をつけたようだ。「絶対苦手」な国語が「もしかして得意」という国語に変わってきたようだ。彼の長所はひとまず相手に合わせられるところと素直な心である。これは私にはない。私は息子の学習の仕方は合わない。
望むのは、息子の成功体験と自信を付けること、息子なりの学習メソッドの確立というものである。それは、本当なら子供が自ら学び取るものなのだろう。手を差し伸べ過ぎと指摘を受けそうだ。しかし、私はおせっかいをきっと続ける。もう少し。うまく行き続けることもないだろうが、挫けるかー。目下は英語の単語である。きっと「目」はあると信じている。