青天の霹靂
「おとん、やばいかもしれん」
仕事終わりの疲れた身体をだらしなく椅子に預け、夕食後そのまま海外ドラマを見ていたらスマホが鳴った。
母が深刻そうな声で、父親の肺に4センチと2センチの腫瘍が見つかったと告げてきた。
「え、腫瘍って何?がんってこと?」
「わからない。どうしよう。人間ドック引っかかってAIに肺に影があるって診断されて町の医者に行ったら当然個人医院でわかることじゃないから紹介状書かれて中央病院いけって言われて行ったら検査が必要だって。もうどうしよう」
まくしたてるように母は言う。
「検査はいつなの?」
「いやぁまだ決まってない。でも4センチまで大きくなってたら普通痛がったり食欲落ちていたりしない?あたしよりよっぽど食べてるんだけどおかしくない?」
「そんなの人それぞれでしょうよ。肺がんである可能性は高いの?」
「わからない、でもほんとおかしいよね。普通気づくよね。ちょっと困ったどうしよう。私よりよっぽど食べるのに。」
母と違って父は煙草を吸わない。中高年太りはあっても母と違って肥満体型というわけでもない。トマトジュースをよく飲み、酒も金曜と土曜だけに決めていて、毎日教員として小学校に通って働いていて、母と違って糖尿病でもなくて、とにかく父は大きな病気をしているところを見たことがなく、年相応に健康な人だと思っていた。
いつか両親が死ぬとしても、きっとそれは先に母に訪れるものだろうと思っていた。
父が肺癌かもしれない。
高1の春、愛煙家の祖父を肺癌で亡くした。診断時点でステージⅣと診断されていた祖父は投薬以外の治療の術がなかった。子供の目線だったからかもしれないが、祖父はそこそこ背が高くしっかりとした体格だった。しかし、その間際には、すっかり痩せこけ、腕や足は枝のようになり、腹は落ちくぼんで肋骨が浮き出て、病院のベッドで骨盤の骨がずっとベッドに当たりっぱなしで痛いと訴えていた。寡黙だったが優しくて、会えばにこにこと笑っていた祖父が、見舞いに行っても苦しそうに天井を見上げる余裕しかなくなっていった。
癌は急速に進行し、確実に死に近づいていく祖父が私は怖かった。
父もそんな風にあっという間に死んでしまうのか、と恐ろしかった。
私はまだ22歳でやっと自立して勤めるようになり、妹は春から大学生、弟はまだ高2だというのに。
定年したらキッチンカーでたこ焼き屋でもやってみたいな、と言っていた父。
兄の急逝により、京都で暮らす認知症の母親を家の隣のアパートに呼び、毎日翻弄されながら二人で生活することになり、夢の実現はだいぶ先の話となった。
電話越しの母の的を射ない返答がもどかしくてつい苛立って、父が長くないかもしれないという可能性がただ怖くて、悲しくて、自分の母親の介護で疲弊している父親がこの診断をどう思っているのかと思うとかわいそうで、吐く息が震えるのを感じて思わず黙った。
「そういや、宮本さんの奥さんも大変なのよ。雪で転んで背骨骨折してーーー」
申し訳ないけど自分の父親が死ぬかもしれない、ということに比べたら心底どうでもよかった。
年始そうそうしんどいことばかりだね、と言うので精一杯だった。
「あたしもおとんから電話で聞いた直後にあんたに連絡してるからさ、まよ達は今カナダだしバァ達に言っても変に気を揉ませるだけだから抱えきれなくて。すぐ言うなって怒られるかもしれんけど。」
同じ高校に通う妹と弟は、町の支援を受けて姉妹校のカナダの高校にホームステイに出発したところだった。
帰ってこのことを知ったらどう思うだろう。
「まあ良性かもしれないしまだ若いから手術で治せるかもしれないから。検査の日程がわかったら連絡するわ。」
「うん、おかんも一回ちゃんと病院行きなね。」
電話を切った直後、私は視界がぼやけるのを気にする暇もなく、
「肺 腫瘍 良性」
と、検索を開始した。
肺の腫瘍で良性である可能性は2~5%とのことだった。
ああ父は肺癌なのだ、ともう泣くのを止められなかった。
二つの腫瘍のうちひとつが4センチらしい父は、見たサイトの情報によれば手術できるギリギリのステージのようだった。
複数のサイトを見ても大きく見解は変わることなく、悲しみと恐怖は増すばかりだった。
煙草を吸わないのに、と原因を調べても空気汚染だとかが挙がって納得できないし、5年生存率は50%を切ってるらしいし、何一つ気持ちを軽くしてくれる情報は出てこなかった。
とてもドラマの残りを見る気にはなれなくて、ベッドにダイブして声を上げて泣いた。
父が近い将来死ぬかもしれない。
私は愛されて育てられてきた。
やっとそのことに気づけた矢先である。
新年早々震災があり、突然家族を亡くした人が大勢いる。
それでも自分の両親はまだまだ死なないと信じて疑わなかった。
きっと私は誰かと結婚して、子どもを授かって、父は当然おじいちゃんになっていくのだと疑う余地もなかった。
親が喜ぶのなら、だいぶ照れくさい結婚式もやってみてもいいし、バージンロードを父の腕を組んで歩くのもやってみたいなと思っていた。
子供がほしいかはわからないけど、両親をおじいちゃん、おばあちゃん、と呼んで孫だよと抱かせてあげるのはやってみたいなと思っていた。
これが、もしかしたら叶わないのかもしれない。
私は父が好きだ。
うっとしいところも面倒くさいところも当然あるけど、それでも久々の帰省で帰ってきたのを喜んでくれているのを感じると嬉しいし、決して裕福でなはないが、これまでやりたいことをやらせてくれた。
仕事が始まったばかりの頃、あまりにできないことばかりで落ち込んでいた日々、珍しくこちらから電話してみたときについこぼしたら「当たり前や、できるわけないやん」と言ってくれて危うく泣きそうになった。
こっちで天気が悪かったりすると「大丈夫か。気をつけるように。」とぶっきらぼうなLINEをくれる。
ここまで愛情を込めて育ててきてくれたことに感謝している。
だから、もう少しお金が貯まって転職したころには旅行に連れて行ってあげたいな、とか、大学4年間過ごした新潟を見せてあげたいな、とか。
毎日の介護疲れから少しでも解放してあげたいな、とか。
思っていたら、である。
母からのこの連絡はあまりに青天の霹靂で、ずっと私の頭を離れず、仕事中にも思い出してはつい涙ぐみそうになった。
文字通り三日三晩泣いて、やっと涙は止まったが、連絡から1週間たった今もただ気がかりである。
母から検査の日程の連絡を今か今かと待っていたら昨日ようやく19日になった、とLINEが来た。
今はただ祈るばかりある。
どうか、手術で治療できるものでありますように。
5年、10年と父が生きていられますように。
どうか。
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