喫茶ライスシャワーの懺悔室~米田雫の福音書~ 7話
意味が分からない。
彼女と別れた後その言葉の意味を反芻しても全く自分の中に入ってこない。
一応僕はその言葉の意味を訊ねた。
「ですから、その華屋兄弟と私が売春したっていう証拠を見つけて下さい。お願いします!」
そう言って彼女は僕に頭を下げる。
「いや、そういうのは自分でやっているかどうか、わかるでしょう?」
自分でやっていることが分からないなんて変だ。
「ううん、詳しくは言えないけど、私は売春してないけど、してることになってるの。だからその証拠が欲しいんです」
「してないけど、している?」
「はい。えーと……」
「つまり、無実の罪で言いがかりをつけられてる、ってこと?」
「えーと、まあ、う~ん」
まだニュアンスが違うのだろうか?
「ともかく、礼人さんは信用できる方だと、私思いました! だから、私の事ちょっと調べて貰えませんか? お店の中のこととか、私じゃ調べられないので」
「もしかして――」
それが目的で今回の依頼をしたのか?
店の内部情報が欲しくて、取り合えずレンタル彼氏を再び雇った――ということなのだろうか?
彼女の俯き気味の顔から見える瞳にはYES、と書いてある。
「――僕にも守秘義務があるから……」
彼女の顔が曇る。しかし、僕の心も晴れない。どうも釈然としないのも確かだった。
「でも、わかる範囲でよければまた連絡するよ」
ぱあっと彼女の顔が明るくなった。
「ありがとうございます!」
そう言って彼女は僕の手を取り笑みを浮かべる。こんな素敵な笑顔のできる子が、売春をするのか?
訳が分からないまま僕は報告がてら事務所への帰路へと着いた。
「つまり、兼平君の見立てでは白なのか?」
「……はい、まあ」
事務所の奥にあるこじんまりとした社長室で社長である一条さん直々に僕は事情聴取されている。スポーツマンだったようで体躯はがっしりしていて、高そうなスーツの上からでも筋肉の盛り上がりが見て取れる。
「あの、あくまで印象です。証拠らしきものも、尻尾も掴ませては貰えませんでしたから……」
まさか自らその噂を調べて欲しいと懇願されたとは言い辛いので黙っていた。余計にややこしいことになりそうだったからだ。
「と、なると……やはり華屋達に聞くしかないか」
苦々しそうに社長はそう呟く。
「でも、意味があるでしょうか?」
「ないな。時間も手間も無駄だ。どうせ黒ならこのまま来ないで辞めるだけだ。ただこれは一応、他のメンバーに対する見せしめでもあるからな。ある程度確定したことで裁かないと、示しがつかない」
なるほど。疑惑のまま終わらせて辞められより、この店がクリーンでありそういったことを許さないと示すことの方が社長にとって大事なのだ。この人は商売の基本が信用だと信じている。信用は目に見えない。だからこそ、こういう信頼を根本から崩すことが許せないのだろう。
「……良ければ、僕が調べましょうか?」
「……何?」
「あ、いえ。乗り掛かった舟ですし、気になるところもありますから。住所を教えて頂ければ、二人から話を聞いてきますが」
不自然ではなかっただろうか? 僕がこれ以上このことを調べるにはもっと当事者の話に突っ込まなければならない。僕は少し緊張した面持ちで社長の言葉を待った。
「やってくれるなら助かる。正直、俺は動けないし事務員の金城じゃ頼りない。お前は――有能だ」
「――恐縮、です」
まさかこんなところで褒められるとは思わなかったので少しだけ面食らった。
「やれることはやる。出来ないことは断る。それがお前だ。出来るんだろう?」
それは過大評価だ。でも、ここは頷く以外の選択肢がなかった。
「――やれる範囲で、頑張ります」
こうして僕は社長のお墨付きを貰い事務所を出た。
中野駅で降り、北口のロータリーからバスに乗り鷺宮方面を目指す。
何と華屋兄弟の家は僕の住んでいる大学の寮からさほど離れていなかった。つまり、僕の生活圏なのだ。僕は善は急げとばかりに帰り際に寄ってみることにした。
哲学堂近くでバスを降り、住宅街へと入っていくと程なくして目的の場所と思しき一軒家が見えてきた。レトロな感じの平屋。あまり、経済的な余裕はなさそうに見える。ここに、二人で住んでいるのだろうか?
玄関の格子扉の横にドアベルがあり、僕はそれを鳴らす。
もう辺りは暗く、中からはわずかながら光が漏れている。誰かいる様子だ。
鳴らしてから暫くして、ドタドタ、と駆ける音と共に扉がガラガラと引かれる。
「はい?」
中から現れたのは若い男だった。
「あの、華屋、哲司さんと学士さんに会いに来たのですが……」
目の前の男がそのどちらか、だろうか? 確かに写真には似ているがどちらとも判別がつかない。あの兄弟はそれほど似ていた。
「二人はいないよ」
「え?」
彼の答えはそのどちらでもなかった。
「あの……」
「あんたは?」
「あ、はい。申し遅れました。私は二人の勤め先だった『デイライト』から遣わされました。兼平礼人と言います」
恭しく頭を下げ、仕事用の名刺を渡す。
「あの、それで……」
「俺は堂羅(どうら)、末の弟だよ。二人は兄ちゃん」
「あ、そうなのですか……」
流石に会社のデータベースにバイトの家族構成まで記載はされていない。二人に兄弟がまだいたことは初耳である。
「それでその、二人に聞きたいことがありまして、お会いすることはできませんでしょうか?」
彼は難しい顔をして僕を窺うように睨み付ける。
「いつ帰るか、わかんねえから」
「え?」
「別に嘘言ってるわけじゃねえよ。本当にいつ帰るかわかんねえんだ」
そう言って彼は手に持っていたスマホの画面を見て何かを確認する。
「そろそろ時間か……」
「あの……」
「上がって。見た方が早い」
そう言うと彼は勝手に家の中に戻っていってしまう。
僕は数舜迷った後、彼の後を追うように家の敷居を跨いだ。
彼についていくと奥座敷の畳の間で彼はテレビをつけ、僕に座るように促した。
何事か分からず、戸惑いながらも僕はそれに倣う。
まだCMのようで、いくつかの提供テロップが見て取れる。
その中にふと見慣れた苗字を見つける。――米田貿易。何気なしに見ていたが、ふと彼女の名前を見つけ少しだけ嬉しい気持ちになるのは何故だろうか?
テレビ番組は何かの音楽番組のようで、アーティストが代わるがわる歌っていく。
「ほれ、次」
「え?」
歌っている男性グループに彼は指を伸ばす。
「あれが兄ちゃん達。今日デビューなんだよな」
そこには確かにレンタル彼氏サイトで見た写真そのままの男が二人、歌い、踊っていた。
「つまり、本業が忙しくなるから辞めたってことか?」
華屋家のトイレで電話で簡単な説明を一条さんにするとそういう返事が返ってきた。
「はい、弟の堂羅君の話だと、二人は偶然スカウトされて、デビューが決まったらしいです」
「それは……うちのバイト始めたあとか?」
「そうらしいです。三人は身寄りが無くて兄弟でここに住んでいたらしいですが、その芸能事務所の社長が三人を気に入って養父に……あの、この話続けましょうか?」
一条さんにこれ以上彼らの身の上話をしても恐らくあまり意味がない。
「……少なくとも、本人たちに続ける意思は無いと思います」
大きなため息が電話口から聞こえる。
「……分かった、もういい。ご苦労さん。バイト代は色を付けておく」
そう言うと電話は切れた。
トイレから出ると、不意に声を掛けられた。
「なあ、兄ちゃん達なんかトラブったの?」
トイレのすぐ横の壁に腕を組んでこちらを見ている堂羅君がいた。
「いや……うん。連絡なくて辞められるとこちらも、ね。でも夢を追ってそっちが叶ったならしょうがないよ」
「俺から謝るように言っとくわ。ごめんな」
「いや良いよ。ありがとう」
見たはちょっとトッポい感じを受けたが意外と礼儀正しい。彼もデビューしたら案外売れっ子になりそうな予感がした。
「……でも自慢のお兄さん達だね。君もデビューするのかい?」
その言葉を聞いた瞬間、彼は何とも言えない、苦々しさと怒りの混じりあったような顔をこちらに向けた。
「……ごめん」
「……何で謝るん?」
「いや、だって……その、何かあったのかい?」
明らかに今感じたものは敵意だ。それも僕に対してではなく、二人の兄に対して、のだ。
「自慢でも何でもねえよ」
吐き捨てる様な言葉。どうやら、何か手掛りが潜んでいそうだ、と僕の直観が告げる。
「……僕で良かったら、聞くよ?」
「見ず知らずのあんたに?」
「……僕もそういう経験あったから。他人に言うと軽くなる。懺悔室……みたいなものさ」
脳裏に雫さんの姿が過る。この後――寄ろうと心に決めていた。
彼は大きなため息を一つ吐くと、淡々と語り始めた。
「彼女を寝取られた」
「!」
「しかも二人に、じゃ。最初は哲司兄ちゃん、次は学士兄ちゃん。二人とも出来てやがった。ありえんわ」
な? 情けないだろ? そう言って彼はおどけたように肩を竦めた。
「しかも正式に付き合ったわけじゃない。『売春』したっていう話じゃ。愛情もなんもないのに、ほんと……くそっ」
『売春』 そのキーワードで僕はある人物の顔が直ぐに浮かんだ。
「あの――君の彼女の名前って、二階堂――」
そこまで聞いて彼はまず大きく目を見開き、次に眉を大きく顰めた。
「なんだ、知っとったんか、真琴のこと」
二階堂真琴の売春の証拠。それは彼の証言と言う形で僕に齎された。
暗い林道を抜け、薄明り灯る白い建物の玄関を潜ると、ふわりとした優しい匂いが僕を迎え入れた。
「いらっしゃいませ」
そこにはいつもと変わらぬ藍色の衣と白いエプロンを身に付けた妙齢の女性がいる。この喫茶ライスシャワーの主、米田雫さんだ。
僕は軽い会釈をしていつもの、僕の指定席であるカウンター奥の椅子に座る。
席について暫し俯き、さて注文しようかと顔を上げるとそこには既にカップが一つ置かれていた。中には黒い液体が満ち、僕の鼻腔を擽り始めている。
「お疲れ様です」
「あ、えっとこれは……」
「またお悩みなのでしょう? どうぞ、それはサービスですので」
本当に、気が利く人だ。
まだ来店してそこそこ、出来るだけ疲れた様子を見せないように、気を付けたつもりだったのだが。
「痛み入ります。ありがとうございました」
「いえ、ごゆっくり」
それ以上彼女は何も訊ねず皿を拭く作業を始めた。
「あの……」
「はい?」
現在の僕の悩みの種である華屋兄弟の件をどう思うか、訊ねてみたい衝動に駆られたが、これは喋ることは出来ない。少なくとも、現段階ではプライバシーに関わる。しかし、彼女に話せば解決するかもしれないという淡い期待がこみ上げてくる。
「あの……キリスト教だとやっぱり売春は、罪、何ですよね?」
咄嗟に話題を変えたせいか頓珍漢なことを言った気がする。当然現代社会でも違法だろうに。
「売春、ですか?」
彼女は変わらない表情のまま僕を見つめ返す。
「ああ、いえ、その知り合いがそういうことに手を出して、ちょっと……」
彼女は少し俯き、右手を顎に当て何か考えている様子だった。
「古代では――」
そう前置きして彼女は口を開く。
「罪人でなく、職業として認められている時代もありました。『神殿娼婦』と言いまして。宗教上の『儀式』として神聖な売春を行った者、としてそう呼ばれる者もいました」
「ぎ、儀式ですか?」
「そうです。神聖な、宗教上必要なもの。もっと広く言えば、当時は道徳的に性はもっと寛容なものであったのかもしれませんね。聖書においても普通の売春婦である遊女は厳しく断じられることが多いですが、神殿娼婦にはさほどの非難がみられません。これはとりもなおさず、神殿娼婦が権力の側――聖書を記述する側に寄っていることの証左でしょう」
「つ、つまりその、キリスト教は売春婦を認めていた――と?」
「いえ、認めてはいません。それに神殿娼婦は異教の文化ですから。依然としてあった売春の文化がキリスト教が広まるにつれ消えていった、という形です。神殿娼婦は名目上、神の為に寝て神殿にお金を落としてたのですから認められていた。聖職者の収入源の一つであったから保護されていたのです」
なんという方便だろうか。普通に身を売るのは駄目で、神殿という――要は国家のお墨付きのようなものがあるうえでやれば神聖な儀式だという。そんなご都合が許されていたとは俄かには信じがたい。半ば、理不尽な思いを抱えながらも僕は彼女に質問した。
「じゃあやっぱり、罪、だと?」
「――そうとも、言い切れません」
彼女はその蒼い瞳を虚空に迷わす。
「確かに禁欲を是とするキリスト教では彼女たちは差別される対象です。ですが、彼らは社会を保つための『必要悪』であると認められていたのもまた事実でしょう。社会や教会の純潔を守る為の――」
都合のよい――道具、という訳か。
苦々しい想いが腹の底からにじみ出てくるのが分かった。全ては運用する者次第の、悲しい道具じゃないか、と。
「ですから、私は一概に売春という言葉だけで罪を断じるのは好みません。きっと、何か事情があるのです。その人にとっては、必要であったように」
彼女はそう言葉を閉じる。
「じゃあ、必要な売春って……」
二階堂真琴が売春をせざるを得ない理由って、何だ?
肉欲? 金欲? それとも、もっと別の何かなのか?
俯いて考えを巡らしていると、彼女は店の玄関の灯りを落とした。
「え?」
「場所を――移しましょうか」
彼女は気付けばあの、懺悔室の前に立っていた。
「秘密は――お守り致します」
そうだ、あそこなら――。
秘密を告白する――このライスシャワーの懺悔室なら。