喫茶ライスシャワーの懺悔室~米田雫の福音書~ 3話
「いらっしゃいませ」
気が付けば、僕の足はライスシャワーに向いていた。店内には誰もいない。そろそろ、終業の時間でもある。僕は何も言わず、奥の席へと座る。
暫く瞳を閉じていると――いい香りが僕の鼻腔を擽った。
「え?」
「どうぞ、サービスです」
僕の目の前に珈琲が運ばれていた。
「あ、いや、支払います。どうせ、その――」
これを注文するつもりだったのだ。何か気を遣わせてしまった気がして慌てて否定する。
「お疲れ、ですよね」
「え? いや、あの……はい」
「この店は」
徐に彼女は僕に向かって語りだした。
まさか、彼女とまともに会話するようなことがあるとは夢にも思わなかった。
「道に迷った人、悩んでいる人を癒したい。少しでも受け入れたい。そんな想いで作りました。私はそんな人からはお金を頂けません」
僕の要望は、あっさりと突っぱねられた。
「お疲れでしょう。どうぞ、ごゆっくりしていって下さい」
そう言って彼女は外の看板をひっくり返し、CLOSEDにする。
「あ、あの……」
「はい?」
「あの、悩み相談、みたいなことをなされているんですか?」
午前中に見た光景を思い出す。あの若い子の相談を受け入ていた、あの――。
「ええ、しています。極たまに、必要とされれば、ですが」
彼女は蒼い瞳で僕の方を真っ直ぐに見据えている。それはまるで総てを包み込むように、慈愛に満ちている、ように僕には思えた。
「あの、それは――」
僕にも――。
「必要でしょうか、救いが」
そう言うと彼女は右手を差し出し、僕を奥へ、と促す。
どうすればいいのか、僕には分からない。
これから起きることも、どうなるかも分かってはいる。ただ、対処方法がないだけなのだ。僕には、どうしようもない。他人に話して楽になれるなら、吐き出して楽になれるなら、それもいいかもしれない。どうにもならないこと、覚悟を決めなければいけないこと。他人に背中を押してもらうこと。
それが、彼女なら、納得出来る気がしたのだ。
僕は、初めてカウンターの奥、更に先へと足を踏み入れた。
「――」
「暗いから、気を付けて」
部屋に入るとそこは小さな、まるで牢獄のようだった。薄暗がりの中、彼女は横に備え付けられているランタンを手に取り奥を示す。部屋の奥には間仕切りがしてあり、二つに分かれた空間が口を開けている。これは――そう、映画で見たことがある……。
「懺悔――室?」
「どうぞ、右の方へお入り下さい」
促されるまま僕は右の小部屋へ。
彼女はランタンを床に置き、左の小部屋へ入っていく。
格子越しに、彼女と僕は向き合う。
いや、向き合うと言っても顔は窺えない。何とも言えない圧迫感。この暗がりを照らすのは、右にある小窓からの月明りだけだった。
「……あの」
「復唱して頂けますか?」
「え、あの……」
「強制では、ありません。信仰を押し付けるつもりはありませんから。ただ、儀礼的なものです。私だけでも構いません」
一呼吸おいて、向こう側から彼女の、祈りの言葉が響く。
「父と子と聖霊のみ名によって」
僕は、言葉を紡げない。まだこの状況を把握しきれていないからだ。それでも――。
『アーメン』
この言葉だけは予測出来た。僕と彼女の言葉が同時に放たれ、見事な響きを発し、自分でも驚いた。
「ありがとう、ございます」
「あの……ここは」
「厳密には懺悔室ではありません。似たような構造をしてますが、用途は色々です。罪を告白しても良いですし、悩み事を話して下さっても構いません。私はそれを聞いて、神の導きを与える助力をするだけです。ですから、神に祈る必要性がないと思うのでしたら何も語らずとも構いません。秘密も、当然守ります。私はただ、それを待ちます」
そう言うと、本当に彼女は一言も発せず、暫く沈黙が場を制する。
何だろう、ここは? 彼女はどうしてこんなことを?
疑問が頭の中を駆け巡るが、最後には、自分の悩みをどうするか? というシンプルな問いだけが残る。話すべきか――否か。
「あの……長くなっても、構いませんか?」
「救いを必要とする者に、時は関係ありません」
透き通った迷いのない声が、僕に決意をさせる。言おう。言って、楽になってしまおう、と。
「僕の名は兼平礼人と言います。彼女――要詩織という、女性のことに関してなんですが……」
僕は、重たくなる口から少しずつ、言葉を絞り出していった。
―――――――
要詩織と初めて出会ったのは渋谷の雑踏だった。
不安そうに周囲を忙しなく眺めている彼女の姿は、迷子の様にも見えた。僕は迷わず彼女に声を掛け、すぐに僕らは打ち解けた。
「凄いね~。こんな人混みでもすぐ見つけられちゃうなんて。ちょっと困ってたもん」
「……まあ、一種の特技というか」
僕は何となく、これから先に起きそうなことを予測出来る。
例えば一昨日、大学でこんなことがあった。
食堂に入った際に覚えた小さな違和感。いつも見ていた光景に混じった小さな齟齬。
トレイを持って移動するよく見かける常連のおじさんが倒れ込むのを僕は予感した。
超能力というわけではない。他人を窺うことで僕は20年間生きてきた。
その集大成が、僕に次に起きることをそれとなく教えてくれるに過ぎない。
僕はさっと駆け寄り、おじさんが倒れる前にその身体を支える。そして意識を失っていることを確認し、すぐさま救急車を呼んだ。それだけの話だ。
ある程度の情報の蓄積が済めば、その人が何をしでかすか分かる。そう、目の前の彼女が何をするかも――。
「ほんと、私たち気が合うね! 助かっちゃったありがとう!」
それは僕にとって最上級の誉め言葉だった。
困っていた人を助ける。して欲しいことを察する。そして事前に給する。僕は彼女の望むままに従い、一日彼女の為に尽くした。――それが、僕の役目だからだ。
それからというもの、彼女とは頻繁に出かけることになった。
「ほんと、私たちお似合いだと思わない!?」
デートの度に受け取る彼女の言葉に僕は曖昧に頷く。彼女が欲している言葉も行動も分かってはいる。しかし、次第に、僕はそれに対して素直に応えを紡ぎ出すことは困難になっていった。――合わない。僕は彼女を知れば知るほど、付いていける自信を失っていた。
「彼女は僕の一線を、超えて欲しくない一線を越えてきます。学費が無ければ援助する。やりたいことがあれば私がしてあげる。全部上げるから、大学とかバイトは辞めてもいいの……、と。でも、それは僕の人生じゃありません」
だから僕は、ここライスシャワーの一時に癒されていた。自分が何もしなくてもいい、この空間に。
僕は、事細かに彼女と一緒にいた時のことを話す。小さなことの、積み重ねによる疲弊を。
「今日は、海へ行くことになってしまいました。色々あって……疲れました」
寮へ押しかけられたこと。サンドイッチのこと。珈琲を零したこと。
「僕は――昔から他人の顔色ばかり、窺ってました」
子供のころからの悪癖。僕は、他人の『嫌な顔』を見るのが堪らなく嫌だった。
「誰かの望むように生きる。して欲しいことを察して先に行動する。紳士の様に振る舞う。僕はそうやって……今まで生きてきました」
他人の為に、亡き祖母のそのお題目だけが、僕の心に残り続けて。
「小学校も、中学校も、高校も、僕は、他人の為に生きてきた――つもりになっていただけだったんです」
そう、これは、僕の罪、なのかもしれない。
「嫌なことを断れない。友達の、先生の、両親の、嫌な顔を見ることが何よりも苦痛だから。それは、僕がきっと、卑屈で、卑怯だから」
言い訳だ、全て。自分の行動理由を他人に預けただけの、自己満足。いや、満足すらしていない。ただ、逃げていただけだ。嫌われる、恐怖から。
「それでも、今までは上手く出来ていました。でも、彼女は――違ったんです」
望むものに応えることの苦痛。要求を満たすことへの恐怖。僕は、初めて他者との距離感に悩まされていた。
「彼女は僕を望み通りに動かしたいだけなのです。僕はやんわりと、それの緩和に努めるだけ。それが……疲れました」
この告白を聞いて、彼女はどう思っているのだろうか? よくある、カップル間の性格の不一致。この程度で打ちのめされる僕が弱い。そう受け取られても仕方がない。僕は、覚悟しながら彼女の言葉を待った。
「それだけ……でしょうか?」
「ええ、それだけ……です」
浮気は、罪だよ。
彼女の言葉がリフレインする。違う。そうじゃない。
「煮え切らない僕がいけないんです。彼女のことも、はっきり言えない、僕が」
目の前の女性を――好き、かもしれないことも。
――罪だよ。
違う。僕は決して君のことなんか――。
呆れられてるだろうか? 言わなければよかっただろうか? そんな想いばかりが、僕の胸に去来する。しかし、彼女はどれとも違う言葉を口にした。
「分かりました」
「分かった……とは?」
「貴方の悩んでいるもの。悪魔の、正体に」
悪魔――。
「礼人――さん、でしたか?」
「は、はい」
彼女に初めて名前を呼ばれ、僕の鼓動が早くなる。
「荒野の誘惑――という話をお知りでしょうか?」
「荒野の――?」
「はい、聖書にある有名な話です。イエスが悪魔から3つの誘惑を持ちかけられ、それを断るという――」
僕は無言で彼女の言葉に聞き入る。
「搔い摘んでお話させて頂きます。荒野を四十日の間御霊にひきまわされたイエスは空腹になられます。そして悪魔に試されるのです。『神の子であるなら、この石をパンになれと命じてみよ』と。イエスは『人はパンのみで生きるものではない』と断ります。そして悪魔はイエスを今度は高所へ連れて行き、そこから見える栄華を与えるから悪魔に跪けと言いますが『神のみに仕えよ』と聖書の言葉を引き合いに再び断ります。そして悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせ、『神の子ならば飛び降りても神は貴方を助けるだろう』と飛び降りてみせよと、彼の信じる神が彼を本当に寵愛しているかを試そうとしますが、イエスは『神を試してはならない』と三度断る、そんな話です」
「……それは」
どういう意味がある寓話なのだろう? その疑問に応えるかのように彼女はよどみなく次の言葉を紡ぐ。
「パンを欲する、とは肉欲です」
「に、肉欲?」
思わぬ官能的な言い回しに僕は軽い驚きを得る。
「肉欲、肉体的な欲求は人間の持つ根源的な誘惑です。お腹が空けば、お金が無ければ、それを与え、その人の自由を得ようとする。それは、悪魔の発想だと言えます」
なるほど。解説されてみれば官能でもなんでもない、当然の話である。僕は少し気恥ずかしくなる。
「彼女は貴方にお金をちらつかせる。貴方を意のままに操る為に」
「……はい」
そうだ。だが、僕は必要以上に彼女からの施しを受け取ることは拒んでいる。対価は得るが、それ以上は必要としていない。施しを受ければそれだけのものを奪われる。『無償の』施しなどと言うものは彼女の中には恐らくない。
「そして目の前の栄華だけを悪魔は与えようとする行為――。これは兼平さんがお金を得ようとする目的を否定することと似ています。大学のため、自身の将来の為にお金を集める、その行為の意味を取り上げ、結果(かね)だけを与える。他人を堕落させるための悪魔の囁きです」
僕はそれに頷くしかない。そう、彼女に従うことは僕の心を売り払うことなのだ。
「そして最後に『神』を試す行為です」
神を――試す?
「神とは貴方の中の信じるもの。心の拠り所。愛のある場所――そういう、大事なものです」
「あ、愛ですか?」
「愛です。貴方は彼女に愛情を抱いていない。違いますか?」
「それは……はい」
ずばりと言い当てられてしまい返す言葉もない。
「貴方は、根本的に『誰かと何かをする』ことに向いていません。彼女と同意の上で何かをした、という話を貴方は一切しなかった。そこに私は『愛』を感じませんでした」
滔々と彼女は僕と要詩織の関係を語る。そう、僕はただ、彼女の思うままに付き従っていただけだからだ。
「ですから彼女は尚更試したかったのです。貴方の愛を、愛する対象を自分に変えさせられないかと。愛する何かを、裏切らせることで」
愛する――何か。
「貴方の言動は、すべて、受け身です。自分から何かする、ということがない。だから、一緒に何かしたのでなく、すべて彼女の押しつけか、義務か、状況的に流されただけです。それが貴方の苦痛となっています」
「その……通りです」
「貴方は弱い。いえ、弱くない人間などいません。皆、必ず何か弱みや弱さを抱えています。乗り越えるか、折り合うか。その先にしか、道はありません」
――厳しい、が、その声は僕の耳に優しく響く。
「真実のままに生きること。それがきっと貴方を救います」
「真実の、まま」
「ええ、真実です。貴方はそれから目を逸らしている。それでは何も解決しません」
僕の――真実。
彼女の顔よりも雫さんの顔が真っ先に脳裏に浮かぶ。
「でも、それは――」
「罪では、ありません」
彼女、要詩織と真逆の言葉が雫さんの口から紡がれる。
「罪じゃ、ない?」
「貴方は他人を愛することが、罪だとお思いなのですか?」
愛。
「そう、他人を慈しみ、愛する気持ちは罪ではありません。貴方は本来、それが出来る方です。しかし詩織さんは違います」
――あの方は。
次の言葉は、僕にとって意外過ぎる言葉だった。
「貴方を、愛してなどいません」
「でも、彼女は僕のことを好きだって……」
「それは真実の貴方ではありませんから。彼女が好きなのは、思い通りになる貴方です。困らせ、戸惑わせ、それでも言いなりになる貴方です。その自覚が、彼女にはある」
「……言い切れるんですね」
彼女を疑っているわけではない。僕も、恐らくそうだという確信がある。それでも、赤の他人からそう言われることに戸惑いを隠せないでいる。
「もしかして、他に想い人がいらっしゃいますか?」
彼女の問いは別の意味で僕の心臓を締め上げた。
「い、いや……それは」
「言い辛いことでしたら仰らなくて結構ですよ」
「……あの、恋人がいたとして、他の誰かを想うことは、罪ではないのでしょうか?」
「誠実、ではありませんね」
「そう、ですよね」
「ですが――」
ガシャン!
その時、何かが割れる音がここまで響いた。
「何――」
「どうやら、いらっしゃったようですね」
「え――」
「貴方の、悪魔が」