私が抱きしめてあげます

生きづらさ、の理由ってたくさんあるのだろうけれど、わたしの生きづらさは「100点満点を目指してしまうこと」と、「一位を目指してしまうこと」だと、この歳になって気づきました。

長くなっちゃった。7,500字近くあるや。
でもわたしのための、覚え書きとして。




限界まで走って走って、もう前のめりに倒れてしまいたくなるほどにならないと頑張った気がしない。自分に対しては「過程より結果」だと思ってしまいがち。結果が全てだと思いがち。

それで休職してしまうほどにいろんなものを勝手に背負って、勝手に潰れてしまったんだなと思う。
人からの期待が重かった。頼むね、の言葉が重かった。どうにかしてよ、できるでしょ?の言葉が辛かった。どうにかしないと、と思ってしまった。できないと申し訳ないと、できないと社会人としてだめなんじゃないかと、思いすぎてしまった。

わたしは決して天才型ではなく、いまの業種に関して才能もないので全てわたしなりに努力しているつもりなのだけれど、人から見ると簡単にこなしているようにしか見えないらしい。
なので期待も要求も自然と高まっていく。どこに行ってもエースの扱いをされてしまう。わたしは決してエースではない。他のエースと呼ばれる人たちとの努力の量が違う。わたしはあまりにも多すぎる。才能がない。努力でカバーしてやっと、だ。でも人からの期待や要求に応えられないのはわたしが至らないからだ、とわたしもどんどん無理をしてしまう。
無理をすれば割と結果が出た。ありがたいことに努力が実りやすいタイプなのかもしれない。努力が実るまで努力し続けてしまうタイプなのかもしれない。
なんだかもう自分ではわからなくなっている。

わたしは父と母から、期待をされて育った。
高卒の父と母の学歴コンプレックスは根深く、三姉妹の長女だったわたしは第一子として手探りの子育てにありがちな加減を知らない過干渉のもとに育った。

小学生のころ、勉強が楽しくて、100点を取ることが嬉しくて、自主的に23時ごろまで勉強していた。テストはだいたい100点だった。
母がとても喜ぶので、100点満点の花丸がついた答案用紙を持って下校する日はいつも早足だった。

そんなある日95点を取った。小学4年生くらいだったと思う、理科かなんかのテストだった。
ショックを受けるわたしに、担任が「学年にひとりも100点がいなかったんだよ、あなたが一番だよ。ちょっといじわるな問題だったね」と声をかけてくれた。ひと学年100人足らず、でも一番が嬉しくて早足で帰った。
台所で晩御飯をつくる母の横でテストを見せたときのことを、いまでもはっきり覚えている。わたしの顔を見もせずに「あと5点どうしたの」と言った母の冷たい声も忘れられない。
「誰も100点いなかったんだって、わたしが一番だって」と答えると、「でもあと5点、取れたでしょ」とこちらを見ずに言われた。
自分の部屋に戻って、なんだか悲しくて答案用紙をくしゃくしゃにした。くしゃくしゃにしたあとなんだか罪悪感に襲われて、広げて手でシワを一生懸命伸ばして、間違えた問題を何度も復唱した。答案用紙に涙がいくつも落ちた。
あのときの10歳のわたしを、いまでも抱きしめたいとよく思う。


そこから母の勉強に関する干渉はひどくなった。
100点以外の答案用紙を持って帰る日は吐きそうなほど緊張した。


中学にあがるときに父の仕事の都合で引っ越しをして、ひと学年48人の田舎の中学校に通うことになった。もちろん知っている人などひとりもいない。

1年の1学期の中間テストの順位は12位だった。48人中12位。父も母も怒り狂い、2時間くらい怒られた。「小学校のとき学年に100人近くいたなかで常に3番以内くらいだったのに、48人しかいないなかで12番って!」と何度も怒鳴られた。中学という多感な時期に、環境ががらりと変わって適応に必死な子どもの心境などわかってもらえるはずもなかった。「次の期末テストで1番を取らないとどうなるかわかってるのか?」と言われ、一切の娯楽を禁止され、友達と遊ぶことも禁止された。
1位を取れなかったらどうなるのだろうと、怖くて仕方がなかった。中学1年生、13歳。不安で人は眠れなくなることを知った。毎日午前3時くらいまで勉強をした。たまに勉強の途中で眠くなると手の甲を思いっきりつねった。集中できなくなると焦って涙が出た。無事、期末テストは1位だった。

その結果は父と母の期待にブーストをかけた。
「やればできるじゃない」「やっぱり中間テストは手を抜いていたんだな」と言われた。父と母にとって1位を取ることは当たり前なことのようで、結果に喜んではいなかった。ここからずっとすべての定期考査と模試で1位を目指さなければいけなくなった。
何度か2位のときもあった。一回だけ3位をとったとき、「いますぐ勉強しろ!」と言われ晩御飯がもらえなかった。田舎で高い建物がないので夜は星がとても綺麗に見えるのだけど、その日の深夜に勉強しながらふと窓の外の星空をみて、なんだかそのとき初めて「あぁ、死にたい」と思った。自分に価値はないと思った。14歳だった。

余談だけど、20代のころに仕事で嫌なこととか恋愛で傷ついたりするとよくベランダで星空を見ながら煙草を吸った。東京のワンルームの狭いベランダに小さな椅子を置いて。都心だったので空は明るく、雲のかたちまではっきり見えるので星なんかひとつふたつ見えたらいいほうだったけど、なんとなく寂しくなったり切ないときはそうするのが癖になっていた。夜空を見上げるのが好きだった。すーっと胸に寂しさや切なさが落ちる感じ。東京の夜は孤独の味方だと思う。

高校受験はもちろん地区の1番の進学校を受験することが勝手に目標にされていて、そうは言っても田舎なので偏差値66とかくらいで都会の人からしたら大したことない高校なのだけれど、もちろんわたしは合格圏に余裕でいた。ずっと勉強していたから。それでも「この高校に落ちたら高校行かずに働けよ」と言われていたので、合格がわかるまでとても怖かった。
父は母に「こんな出来の悪い頭、誰に似たんだ」と言うし、「あんたがしっかりしないとお母さんが怒られるでしょ!」と言われるし、毎日地獄だったのだ。

極端な結果を出さないと、自分には価値がないのだと思った。ありのままを認めてもらうことなどなかったので。どうやらこれはある意味の虐待らしいと知ったのは、大学で心理学を学んだときだった。最近改めて調べたら、親が子にしてはいけない子育て例に両親はとても当てはまる。毒親であり、過干渉であり、過保護。どうやらわたしもアダルトチルドレン気味らしいことも、なんとなくわかってはいたがやはりそうらしい。
父も母も自分が間違っていたとは思っていないので、一生自分たちの子育てについてその正誤をネットで調べることもないだろう。


無事高校に合格して、友達と合否発表を見て帰宅したら家族が誰もおらず、焦って母の携帯に連絡すると「合格でしょ。じいちゃんから聞いたよ(じいちゃんが勝手に合否を見に行っていた)。いま出かけてるから。よかったね。当たり前だけど」と言われ、何かが私のなかで崩れた。わたしは余裕の合格圏にいたけれど、それでも合格おめでとう!と喜んでほしかった。わたしの努力は当たり前なのだと、わたしの努力も葛藤も寂しさも知らないくせに、と怒りで体が震えた。そしてその日の夜に初めて両親に怒鳴った。「もう何年もずっと、勉強しろ勉強しろって!そっちのご希望に沿って高校に受かったんだからもう二度と勉強に口出さないで!」と力いっぱい怒鳴った。あれほどうるさかった両親は、不思議なことにそこからぱったりと何も言わなくなった。


高校は反動で勉強しなくなり、順位は下から数えたほうが早くなった。
成績が良くないので大学もそんなにいいところには行けなそうだったので、父はもちろん「低いレベルの大学に行かせる金はない。もったいないから行くな。働け」と言った。でも大学を出ていないと就職に苦労するらしいと聞いた母が父に頼み、わたしは東京の私大へ進学した。大学へ行くことすら反対していたのに、上京させてもらえるとは思っていなかった。東京の大学に行かせてくれたことを、父にも母にもとても感謝している。

そしてそのまま就職して、東京にいる。
親が誰かに自慢できるような大学ではなかった。入学してすぐの頃に私立の授業料を自分で調べて驚いて申し訳なくなり、成績はほぼオールA、就職くらいはとなんとか親も喜びそうな会社に入った。大学に行かせてあげてよかったと思ってもらえるような、という意味で。(1年で辞めるつもりだったが)
結果、休職もしているけどまぁこの会社でよかったかなと思っている。福利厚生がしっかりしていて、社会制度や税やお金に関して知識がつく。
両親がそのあたりに詳しくないゆえにそこそこ高収入な割に損している印象があったので、わたしはそのあたりに強くなりたいという気持ちもあった。実際、生活するうえでその知識はかなり役立っている。

社会人になって自立して、両親は驚くほど何も言わなくなり、むしろ「東京でひとりでよくやっている」と褒めるようになった。仕事先や近所の人に「娘さん、東京で自立してて偉いねえ、すごいねえ」と言われるたびに父が嬉しそうなのだと聞いた。そこそこ稼いでいることも誇らしいようだった。大学に行かせてもらったので、そう思ってくれていて本当によかったと思った。
過干渉がなくなり、物理的に離れて暮らしているので過保護でもなくなり、両親といい関係になれたのかなと思うと嬉しかった。
いろいろ辛かったけれど、それでも両親のことを嫌いだと思ったことはなかった。ずっと大好きだった。だから苦しかったのだ。子どもは親を喜ばせたいと思うものなのだと思う。
たまに過保護過干渉だったころを思い返して苦しい気持ちになることもあったが、過去のことだと割り切って思い出さないようにしていた。


なのになんで昔のことを思い出したかと言うと、先月帰省したときに母に何十年ぶりかに怒鳴られたからだ。
あれもこれもケチつけて怒鳴るので、何に対して怒っているかはよくわからかったけれど、わたしが結婚しないことについて主に責められた。
ずっと「結婚はしてもしなくてもいいんじゃない、好きにしたらいいよ」と言っていたくせに。
いまの恋人と暮らして5年、穏やかにそれなりに幸せに暮らしている。お互いに「なんとなく籍は入れてもいいし入れなくてもいいかな」と思っていた。わたしにはわたしの、彼には彼の考えや事情があってのことだった。もちろんこの先も一緒にはいるという気持ちはお互いにあった。でもまあ籍はとりあえずいいかなという感じだった。
籍を入れないことについて、親しい友人にも言いたくない、彼以外には誰にも話したくない事情や感情がわたしにはあった。彼も一度結婚に失敗しているので、入籍云々を気にしない人なこともあった。「籍もまあ大事かも知れないけど、2人の絆や関係が一番だと思うし俺は一緒に暮らしてていまでも幸せだよ」と言ってくれていた。彼の両親は「あなたたちのことだからわたしたちが口出すことじゃないからねえ、2人が元気ならそれでいいのよ!好きにしなさいね」というひとたちなこともあり、まあしばらくこのままでもいいかな、まあわたし休職中だしね、と思っていた。
当たり前だけど、2人とも自立して自活しているし、親に頼っているところなどひとつもないし、親にあれこれ言われる歳でもない。

なのに突然わたしの母が怒り狂うので、何事かと思った。義父母の介護などで疲れているとは聞いていたが、籍を入れないことにそこまで急に怒り出すとは思わなかった。
あんなに「あんたは結婚しなくてもいいかもね、ひとりで生きていけるしね」と笑っていた母が。
「お母さんはもう歳だし疲れてボロボロなのよ。あんたが結婚してくれたら安心するのに!もうあんたの面倒見る気力なんかないのに!」と言われ、親を安心させてあげたい気持ちもなくはないけど‥と思った。

でも、母の疲労はわたしのせいではないのだ。
わたしの2人の妹はどちらも実家にいるのだけれど、上の妹はもう何年も無職。なのに去年突然かなり難あり訳ありの男性と結婚すると言い出して両親を困らせいきなり北海道へ飛んだりした女で(結局半年くらい向こうにいたけど結婚どころか破局して帰ってきた)、下の妹は仕事はしているけど前の彼氏とここには書けないほどの揉め事を起こして何度か警察沙汰になり両親にかなりの心労をかけた前科がある。その後情緒がおかしくなりもう別れて一年ほど経つのにまだずっと元彼のことを夜通し母に泣きながら話すらしい。言っておくけど下の妹ももうすぐ30歳になる。毎日、駅まで送り迎えすらしている。朝は7時、夜は21時。朝早く起きて弁当を作り、起こしてまでいる。正直異常だと思う。結構恥ずかしいので、わたしは友人にも妹たちの話ができない。

しかもこの2人の妹は仲が悪いのでしょっちゅう大喧嘩してどちらかが家を飛び出しては母に心配をかけているとも聞いていた。


母の疲労もこの先の不安も、どう考えても妹2人のせいでは?と思ったが、それを母に言っても「違う、あの2人は関係ない!あんたのせい!」と言う。
妹たちに思うところはないと言う。わたしが未婚なことがあくまで不安の種だと言う。
ちなみに休職のことは心配していないらしい。わたしならいくつでもまた仕事見つかるでしょ、と言う。ますます意味がわからないと思った。


どうやら、知り合いに「ねえ、あなた子離れできてる?」と真剣に言われたらしい。ショックだったのだろう。たしかにうちは全員未婚だ。でも多分知り合いも未婚かどうかの話をしたんじゃないと思う。狭い田舎なので、妹たちの無職も過保護も実家暮らしも知られている。
でも母曰く、そんなことを言われたのは、わたしのせいだと。わたしが独身だからだと。わたしが結婚すればそんなことも言われないと。


母も多分わかってはいるのだ。妹たちのほうがずっとやばいことなんか。
でも、わたしなら言うことを聞くと思って、わたしなら話が早いと思って、わたしなら叶えてくれると思って、言っているのだ。
なぜならわたしは親の思い通りに努力する子どもだと思っているから。
そして、自分の子育てが失敗だったと思いたくないのだと思う。どう考えてもわたしは自立していて、しかも親元離れたわたしだけが自立していることが気に食わないのだと思う。まるで自分が責められているようで。
母は自分が過保護過干渉な自覚はあるのだ。

もういい大人なので、わたしは結構貯畜しているのだけれど、それについても文句を言う。「お金なんか貯めてどうする気!?」と怒鳴る。彼に甲斐性がないのではないかと言いたいのだと思う。このご時世に資産運用も貯蓄も基本だと思うけど、そんな話は通用しない。
わたしはひとりで映画館で映画を観るが好きなのだけど、「なんで彼氏は一緒に映画に行かないの!?愛情がない!」と怒鳴る。「彼が興味ない映画のときもあるからだよ」と反論すると、「それは薄情、どんなときでもついてきてくれる男じゃないと!あんたの彼氏みたいなのはお母さんは嫌い!」と言う。
「こんなに苦労して育てたのに!」といちいち言うので、最後は黙っていた。そしたら「そうやって黙るの、東京の人だね。あー、薄情。情がない」と吐き捨てられた。
「彼氏と長く付き合って、向こうの親御さんとも仲良くて、あんたはもう向こうの家の人間だね」とも言われた。


何も言わずに、わたしは次の日東京へ戻った。
その日から母には連絡しなくなった。いまのところは、今後会うこともないと思っている。

突然東京に戻ったので、そのあと父には電話をして事情を話した。いろいろ話しているうちに、父はわたしが就職して自立してから、とっくの昔にわたしを無条件に認めてくれていたのだと改めて思った。お前の人生だよ、と笑っていた。お前はよくやってるよ、と。結婚してもしなくても、子どもを産んでも産まなくても、親ですら口を出していい話じゃないよ、と。好きに生きて、元気でいてくれたらこれ以上のことはない!と言われて涙が出た。
父はすっかり変わっていたのだ。むしろ、いい父親だなと思った。父にいろいろと言われてつらかった過去の記憶が、昇華された気がした。ずっと心につっかえていた言葉や記憶が、さらさらと崩れていった。過去の父のことは、もう少しも恨まないと思えた。
父も母の子離れのできていなさに思うところはあるらしい。妹たちの親離れのできなさも。
指摘すると怒り狂うらしく、今のところ様子見しかできないと困っていた。


最近、記憶のなかの幼いわたしを抱きしめている。つらいね、がんばってるね、と声をかけて抱きしめているところをよく想像する。なぜか涙が出てしまう。
いま傷ついているわたしのことは、彼が抱きしめてくれることを本当にありがたいと思う。
つらかったね、と言ってくれる人がいる。あのとき言って欲しかった言葉をすべてくれる人。


突然、母に怒鳴られて、幼いころの感覚を思い出した。ありのままなど受け入れてもらえないのだと思い知る感覚。
自分の思い通りにならないと理不尽に怒鳴りつけてくる母を見て、ああ、この人は昔からこういう人なのだと思った。子どもを思い通りにしたい人。妹たちは世間的にはやばい人間たちだが、母のそばで母の言うことを聞いて生活しているので母からしたら確かに“いい子”なのだ。妹たちと話していると「それママも言ってた!」「ママがこう言った!」とよく言うのだけど、ゾッとする。


幼いころはただただ自分が至らないのだと自責したけれど、いまは違う。
親子だって別々の人間で、わかりあえないこともあるのだ。もう、縁を切るしかないのだと、それくらい傷付いたし腹が立ったのだと、わたしだって思ってもいいのだ。

もう、誰かの期待に応えようとして必死にならなくていい。無理しなくていい。
自分のこと犠牲にしなくてもいいよ。
しんどかったけど、そう思えてよかった。復帰前に気づけてよかった。

母のことが大好きだった。何年か前に生死を彷徨うほどの病気をしたとき、介護休暇をとって3ヶ月そばにいた。大変だったけど、生きていてくれて本当によかった。心から思う。長生きしてほしいと思う。
でももう会うことは多分ない。母がいる実家には、もう帰れない。なので、父にも、犬たちにも会えない。それを寂しく思う。


こんなかたちで実家を失うとは思っていなかったけど、わたしはわたしの人生を生きていかなくちゃ。

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