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神様が助けようとしたのに断った人の話
聖書のマタイ書6章26節にあるキリスト言葉の意味が今日やっと腑に落ちたのでシェアしたいと思います。
その聖句は新共同訳で、以下のように訳されています。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる
どのように腑に落ちたのか、説明する前にもう一つ別の寓話を読んで欲しい。
ある日、大洪水が発生し、一人の男が屋根の上に避難した。
彼は神に祈り、「神様、どうか私を助けてください」と願いました。
しばらくすると、救助隊がボートでやってきて、「乗ってください、助けに来ました」と言いました。
しかし、男は「いいえ、神が私を助けてくれるから大丈夫です」と言ってボートを断りました。
次に、ヘリコプターがやってきて、「ロープを下ろしますから、掴んでください」と言いました。
しかし、男は再び「いいえ、神が私を助けてくれるから大丈夫です」と言ってヘリコプターも断りました。
最終的に男は洪水で溺れて死んでしまい、天国で神と対面しました。
男は神に「どうして私を助けてくれなかったのですか?」と尋ねました。
すると神は、「私はボートとヘリコプターを送ったではないか」と答えました。
この寓話は、人が自分の期待する形での救いを待ち続けるあまり、実際に与えられた助けを見逃してしまうことがある、という教訓を込めて作られた話です。
人が神様に助けを求める時、神様は必ず助け船を出してくれるのですが、その「助け船」が「思ってたのと違う」形で来るというケースが良くあるのかもしれません。
あるいは、タイミングが「思ってたのと違う」という場合もあるかもしれません。
神様の存在自体も、人が「思ってたのと違う」カタチなのかもしれません。
私たちは、期待や思い込みが強すぎると、せっかくのチャンスを見逃してしまったり、自ら大きな盲点を作り出してしまいます。
堅い信念を持つことや、自信を持つこと、自分自身の勘を信じる事は大切です。
ですが、そこに謙虚さが同時に兼ね備わっていなければ、ただの頑固な愚か者になってしまいます。
博識で経験豊富な人もいるでしょうが、広大な宇宙の中の、気が遠くなるような長い長い歴史の中で、人が知っている事は一体どれだけでしょうか。
例えば量子の世界には、物理学者も頭を抱えるような謎が、まだまだ存在しています。
「神様なんて存在しない」と思っている人も大勢いると思います。
でも、存在しないと決めつけずに、「もしかしたら、自分の想像を超えたカタチで存在しているのかもしれない」と考えてみると、新たな気付きが生まれるかも知れません。
冒頭に挙げたキリストの言葉には、以下のような続きがあります。(一部省略)
…思い悩むな。 …あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。…これらのものはみな加えて与えられる。
多分、鳥は食事の事で思い悩んだりしていないと思いますが、何もせずエサが天から降ってくるのを待っている訳ではなく、自分の巣から飛び立ち、食べ物を探しに行き、それを得ます。
人も、助けが必要な時に、神頼みをしてただ待っているのではなく、能動的に動く事、そして思い込みや決めつけをせずに、「もしかしたらこれが神様がくれたチャンスかも知れない」という視点で、物事を見る柔軟さが必要なんだと思いました。
しかし、同時に「これはワナかもしれない」という疑いを持つ事も重要です。
人の弱みに付け込んだり、足元を見て騙そうとする悪い人々も沢山いて、弱っている獲物を探しているからです。
それは占いだったり、宗教だったり、スピリチュアルだったり、色々な形態を装って近づいてきます。
そもそも人が言う事に絶対なんてあり得ません。
私も聖書を引用しているものの、聖書が絶対だと思っていません。
聖書は昔のキリスト教会が「聖典」として選出した66冊の本を1冊の聖書としてまとめた本です。
実は、「聖典」として選出されなかった「偽書」「外典」とされている書が、聖書の外に存在しています。
果たして、この「聖典」の選出が完全に正しかったと言える根拠はどこにあるのでしょうか。
私の考えでは、恐らく神様は聖書やキリスト教の枠組みに限らず、ありとあらゆる偉人や作品にメッセージを託されているのだと思います。
マタイ書7章7節で、キリストはこう言われたと書かれています。
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
人が神様からのメッセージを理解したいと「求め」続ける時に、それに出会う事が出来るのでしょう。
そのメッセージは、あなたが「思っていたのと違う」カタチで、あなたに見つけられるのを待っているのかもしれません。
信じるか信じないかは、あなた次第です。