『やがて君になる』読書感想
最終巻までのネタバレを含みます。
『やがて君になる』(やが君)に出会ったのはたぶん5年ほど前で、友人と一緒に別の友人宅に泊まりで遊んでたときに、アニメイトに入って偶然見かけた。タイトルに惹かれて中身について全く知らずに買った。当時はAro/Aceについて全く知識がないし、やが君の宣伝文句も全然知らずに読んでいたので、百合漫画だな〜と素朴に思っていた記憶がある。
当時出ていた4巻まですべて買って、そこまで読んだが、それからしばらく続きを読まず、いつのまにかアニメが放映されていつのまにか終わり、何かのきっかけで5巻以降を買ったのに読まず、今までずっと放置していた。
自分で勝手に「失恋」して(この言葉の意味はあとで振り返る)、なんか関連する本を読みたいなと思い、昨晩一気に読んだ。Aro/Aceについての知識をつけた今の私、そして、学会で友情・恋愛・性愛等の親密な関係に関する哲学の発表も少しした今の私にとってはドンピシャだった。作品考察をするというより、今の私の中でのこの作品の受容の仕方を書きたい。
私が気になってるのは、関係における規範、関係と規範の変化、そしてそれらの評価のされ方の三つ(今後私が研究テーマにしたいこと)。これらはそれぞれ関係してる。
やが君の最初のパートから最後のパートにかけて、これのテーマはずっと関連していたと思う(私が気になってるからバイアスがかかって読んでるのもあるけど)。最初、七海橙子(橙子)は小糸侑(侑)に対し、自分を好きにならないあなたが好きだという仕方で侑に接しており、侑もそれを受け入れている。だが侑が橙子に対して好意を抱いていることに気づいて、侑はそれを橙子に伝えるが、橙子はそれに対して「ごめん」と言ってしまう。このごめんの意味は、実は断りではなく、一方的に甘えてきて嘘をつかせてきてごめんという意味なのだけれど、好意を伝えた後のごめんを、侑はもちろん断りの意味で捉える。
この場面(6巻34話)は印象に残った。互いに、言葉にしたことの規範が存在してると思っている。2巻10話の同じ場所(川)で、橙子は侑に対し、そのままで、つまり、私のことを好きにならないでいて、と伝えて、侑はそれを了承している。侑はこれを約束と捉えているし、少なくともその認識は正確だろうと思う。これは私には、規範を作り出してることに相当するように見えた。以降の物語は、この規範にしたがって両者が関係を築き上げていく。しかし6巻のこの場面では、もはやその規範の価値は変化してるように思われる。侑は橙子が変わったことを認識しながらも、明示的なその規範が変化してないがために、規範に違反したという認識のもとで告白をする。橙子のほうはというと、その規範をもはや価値づけてないと思われる。そのためにすれ違う。
規範の変化や規範に対する態度の変化は橙子と佐伯沙弥香(沙弥香)との関係にもみられる。でもこっちが私にとって興味深いのは、規範を明示的に作成してないことだ。橙子は沙弥香に対して何か明示的な要求をしているわけではない。ずっと暗示してるし、途中示唆してることはある(劇の内容変更に対して、沙弥香が期待した行動を取らなかったことに対する暗示的な文句とか)。でも明示してない(期待した行動を取らなかったことに対しても明示的な文句を述べてない)。互いに察して、暗示されてる規範に従うが、沙弥香は橙子の変化を察して、暗示的にあったはずの規範に違反する(告白する)。橙子はそれに対して真摯に答えるのだが、規範の違反に対する文句はなされない。それはなにより、その暗示されてた規範はもうないからだ。
だが、暗示されてた規範が始めから無かったわけではない。なぜなら明らかにこの二人は、その暗示されてた規範の要求にしたがって行為していたし、それでその関係をうまく維持できていたと思うからだ。しかし暗示されていたに過ぎないからこそ、暗示的に変えることもできるし、関係を(変化を伴うにせよ)成立させ続けることに有用に使っている。
橙子と侑がうまくいってなかったのは、明示的に作成された規範に侑が違反したことを、侑は違反として認識しながら実行し、橙子はそれをその時はうまく処理できなかったことにあるかもしれない。その規範は、当初は関係を維持するコアになっていた規範なのに、6巻34話の最後においては関係を阻害する規範になってる。橙子も侑も変わったのに、規範が(少なくとも明示的には)変わってないことがその規範を悪くしてる。その規範はもはや互いにとって苦痛を与えるもので、6巻34話時点ではもう価値ある規範ではない。規範は明示的な仕方で変えられなければならない(8巻40話でその作業がなされてる)。
(私は関係の共有規範説なるものを考えていて、ある関係を関係足らしめてるのは、暗示的であれ明示的であれ、共有規範の存在によると思っている。これは今後ちゃんと形にしたいのだが、いずれにせよ、やが君のこういったストーリー展開は、共有規範説をどううまく使えるのかの具体例になっていて、読んでいて興味深かった。共有規範説にとって厄介なのは感情の扱いなのだけれど、これについてもやが君のストーリーは私にとって示唆的だった。)
私は自分で勝手に「失恋」したのだが、それは、私が自分の感情やその人との関係の規範について、当初思っていたこととは違う仕方で向き合うようになったからだ。自分の感情のラベルを貼り替えたという意味で失恋した。
8巻44話では、侑がラベルや通俗的な規範(つまり恋人は一般的にこうするよね、という規範)を気にしてことが描かれる。でも橙子はそのようなラベルが同じでも、それで指示される関係が変わっていくと述べて、「侑と私」でいいと言っている。
自分たちの関係や感情を整理する上でラベルは重要だと私は思う。「ノンバイナリー」というラベルを知って、そのラベルで指示される私はおそらく変わり続けているけれど、自己理解に明らかに貢献している。ラベルは道具的価値を持つ。
今回私は、自分の感情を「恋愛的」だとラベル付けしていたものを、そのラベルをもう取っ払ってしまって良いと思えたので、「失恋」した(「恋愛的」感情ではなくなった)。だが時間は経過してないので、中身は同じままだ。でももう、そのようなラベルにとらわれなくても、受容できる事に気づいた。
しかし関係や感情のラベルそれ自体は重要じゃない。私がその人とどういう共有規範を作って、変えて、それによって関係をどう変化させていくのか、私が共有規範仮説を信じるのなら、こっちが内在的に大事なことだ。(橙子と沙弥香、橙子と侑の関係がうまくいくようになったのも、関係における規範とうまく付き合えるようになったからかもしれない。わからないけど)
やが君を読む前にこの考えに至り、やが君を読んでこの考えは強固になった。最高のタイミングで読めたと思う。初めて出会って5年ほど経過して、ようやく自分の中に受容できた。出会えてよかった。