外延的にアローセクシュアルで、内包的にアセクシュアルである可能性、また「性的」とされるもの

※以下、性的な表現が何度も出てきます。


性的惹かれとムラムラ

最近この本を読んで、アセクシュアルについて勉強する中で、「性的」なるものがなんなのかわからなくなってきた。この本ではセックスとは何か、性的なこととは何かについて、あまり議論がない。セックスとレイプ、同意との関係などについての議論はあるが、セックスそれ自体、性的なことそれ自体についての議論が、私が読んだ限りではあまりなかった。

さて、アローセクシュアルは性的惹かれがあることで、アセクシュアルは性的惹かれがないことだ。ところで「性的惹かれ」とは何か。本書では性欲動(リピドー)との区別から説明される。上記の本から説明を引用する。

端的に言えば、性欲動(もしくはリビドー)は性的発散への欲望で、身体におけるひとまとまりの感覚であり、それはしばしば、勝手に入り込んでくる考えと結びつけられている。それはどこからともなく、明白な理由なしに、誰とも関係なく出てきうるものだ。〜〜〜(中略)〜〜〜。それは「ムラムラすること」の別の言い方で、誰にでも降りかかりうる。ムラムラは性的惹かれを含む必要がないからだ。〜〜〜(中略)〜〜〜。
だとすれば、性的惹かれは、特定の人に向かう、もしくは特定の人によって引き起こされるムラムラということになる。そのパートナーと性的になりたいという欲望である──ターゲットありのリビドーだ。

アンジェラ・チェン; 羽生有希. ACE (pp.45-46). 株式会社左右社. Kindle 版.

ここでは「性欲望」が、ほとんど「ムラムラ」と言い換えられている。そのため「性的魅かれ」は「特定の人に向かう、もしくは特定の人によって引き起こされるムラムラ」と定義される。「性的」とはどういうことなのかは暗に前提にされ、事実上「ムラムラ」から特徴づけられている。

私はたぶん「ムラムラ」の感覚を理解している。一般に性的とされる部位(生殖器、胸部など)をいじることで得られる快楽によって、そのムラムラを解消できることを知っている。
そうだとして、性的惹かれをこの観点から理解すると、特定の人に向かうムラムラ(その人との行為によってこのムラムラを解消したい)、あるいは特定の人によって引き起こされるムラムラ(その人の存在や外見、行為によって引き起こされたムラムラを解消したい)、そういうものが性的惹かれだとのことらしい。私はたぶん、この感覚を一切経験してない。ということはアセクシュアルなのだろうか。いやしかし、私は他者との性的活動をしたいと思うことがある。だが私は他者との性的活動をしたいと思っているわけではない。以下では、この強調点の違い(活動のほうに焦点があるのか、性的のほうに焦点があるのか)を考えていく。

身体接触欲求とムラムラ

私にとって重要な欲望のうち、他者に向かう欲望の一つは、身体接触欲求である。他者の身体と自身の身体を接触させたいという欲求であり、具体的には、肩に触れる、肌に触れる、手を繋ぐ、ハグをするという「非性的」とされることから始まり、キスをする、裸でハグをする、などの性的/非性的のグレーゾーンに入り、ムラムラを解消するような部位への接触という「性的」とされることまでの、一連の行為をまとめて、このような行為集合に対する欲求を身体接触欲求として経験している。私にとって、肩に触れる、手を繋ぐということから、「性的」とされる部位への接触を伴うことまで一直線につながっていて、「性的」「非性的」の区別は全く重要じゃない。

私は身体接触欲求をムラムラとしては経験していない。より正確に言えば、偶然にもムラムラと身体接触欲求が同時に生じると、いわゆる「性的惹かれ」になるような経験が生じているのかもしれない。だがそう呼ぶことは不適切だと思う。理由は二つある。

第一に、ムラムラ単体を別の仕方で解消できる。例えば自慰行為をすることで解消できる。それでも、身体接触欲求は消えない。ということはムラムラと身体接触欲求は別物だ。他者に向いているのは身体接触欲求であり、ムラムラそれ自体は他者に向いてない。

第二に、身体接触欲求の充足には、いわゆる「性的」とされる行為や経験を必要としない。ハグやキスをするだけでかなり充足される。上で一連の行為を並べたときに、実は、肌の接触面積や直接触れているかどうかの程度を変化させて並べいた。肩や手に触れることより、ハグをすることはより身体接触が生じている。裸になってハグをすることはもっとそうだ。キスをすることは、口や口内という感覚的に鋭敏な器官同士の接触なので、少し特殊な仕方で身体接触欲求が充足される。さらに「性的」とされる部位への接触は、ハグでは触れないような部位への接触を伴う。だから、身体接触欲求の充足度合いは、それにつれて高まっている(でも実際は、挿入を伴う行為とかのときには肌の接触面積が減ってることがある(例えば後背位は全然接触してない)ので、そんなに身体接触欲求が充足されない)。そのため、偶然にも、ムラムラの解消が身体接触欲求の大きな充足にもつながるにすぎない。

外延と内包:アローセクシュアルかつアセクシュアルの可能性

ここでタイトルに含まれる言葉、外延(extension)と内包(intension)について説明するために、具体例を示す。
例えば、1〜9の間の偶数の集合は、{2, 4, 6, 8}、と表記できる。
このような集合を特徴づけているとき、その具体的なメンバーのことを外延と呼ぶ。ここでは「2, 4, 6, 8」のことだ。
他方、「1〜9の間の偶数」というように、その集合のメンバーが共有する性質のことを内包と呼ぶ。

性欲望と性的惹かれの話に戻る。上のように、私にとって重要なのは身体接触欲求である。ムラムラ(性欲望)は特定の誰かに対して向けられていない。だから、この意味で私は、つまりその欲求の性質の意味では、内包的にはアセクシュアルなのかもしれない。私は特定の誰かに対してムラムラが生じてない、と自身の経験を特徴づけられるからだ。

一方で、私の身体接触欲求は他者に向かっている。さらに、身体接触欲求を充足する行為集合の中には、「性的」とされてる部位への接触を伴う行為が含まれる。さらに、身体接触欲求とムラムラが同時に生じたときには、まさに、「性的」とされてる部位への接触を伴う行為を、まさにその他者とすることによって、身体接触欲求とムラムラが同時に解消される。この意味で、私は他者との「性的」とされる行為、つまり「性的」とされる部位への接触を伴う行為集合のメンバーを、私の欲求内容は指示している。したがって私は、具体的な行為のレベルでは、つまり外延的にはアローセクシュアルなのかもしれない。

内包と外延を区別すると、このように、アセクシュアルかつアローセクシュアルという一見矛盾したかのような可能性が見えてくる。少なくとも私自身の経験の記述としてはしっくりくる。だが内包と外延がどうして分離するのだろうか?
おそらくその答えは、「性的」とされるもの自体にある。

「性的」という性質と、それが指し示すもの

以上のように、外延と内包という区別が以上の文脈で本当に可能かどうかはよくわからない。しかし少なくとも、問題となってるのは「性的」とされるものの特徴づけであると思う。
「性的」とされるものの外延はほとんど現代西洋文化のそれが想定されてしまっている。だから、それを対象とする惹かれを経験しないことをもってアセクシュアルと解釈される。だが「性的」が指し示す範囲が変わったらどうなるだろうか。アセクシュアルという解釈は維持されるだろうか。私は、外延と内包の区別がここで有効だと思う。

『ACE』の本の中でも、途中、「性的」とされるものや、それに対する好感/嫌悪が文化間で異なることが言及されている。そこで、例えば、日本の性文化が突如として変わり、生殖器に触れるだけでなく、身体接触一般がすべて「性的」と呼ばれるようになったとしよう。こうなったとき、おそらく二種類のアセクシュアルのあり方が考えられる。
第一に、「性的」と呼ばれるものは何であれ、それに対する惹かれを経験しなくなるケース。「性的」と呼ばれるものが変われば、それに伴って惹かれを経験しない範囲も変わる場合がこれにあたる。これは内包的にアセクシュアルであるといえる。「性的」という性質が問題になっているケースだ。
第二に、過去に「性的」と呼ばれるものに対する惹かれを経験しなかったが、今「性的」と呼ばれるもののうち、過去には呼ばれなかったものについては惹かれを経験するケース。このケースでは、過去には外延的にアセクシュアルだったが、今では中間的な存在であると言えるだろう。

どっちが「真の」アセクシュアルなのか、というのがどれほど深刻な問題なのかはわからない。そもそも「真の」という修飾自体に問題がありそうだし、この問題の深刻さは「アセクシュアル」ということを自身のアイデンティティとしてどれほど引き受けているかや、「性的」とされるものに対する向き合い方に左右かもしれない。いずれにせよ、外延と内包の区別をすることで、「性的」とされるものをより詳細に見つめることができると思うし、少なくとも私自身の理解は促進された。

しかし、ところで、「性的」なる性質はどういう性質なのか? ここでこの問いに答えを与えることはできそうにない。

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