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ありがたき日のこと

 何だかハマらない日ってあって、昨日は朝からそうだった。電車の時間を勘違いしていて急ぐ必要がないのに急いでしまったり、電車で手鏡を見たらマスカラを塗り忘れたことに気付いたり、私が座る横に来た女の人の香水の趣味がとっても悪いとか、朝イチの職場の洗面台に羽虫の死骸がいくつも落ちているとか、コピー機を使用したいときに限って誰かが使っている、みたいに、なんだか日常の中で拍打っているリズムとか音とかがことごとくズレていた。
 ちょっとずつのことがちょっとずつ後ろにズレるそんなとき、私は私に対してとてもとても居心地が悪い。ずっと自分の内外の擦れ目から不協和音が鳴っているみたいで、それを聞いている私は、私の中から飛び出てどこかすがすがしい場所で駆け回りたい。
 進行するすべてのものは時間の流れの上にあるから、生きるのも自転車を漕ぐのも音楽が流れるのもすべて平行にあると思っていて、そしてそれらは私の中ではひたりと重なっている。朝自転車を漕ぎ始める、すると音楽が流れ出す。花を見る、風に秋を感じる、わた雲を見る、きれいな和音が鳴る、正しいリズムが刻まれる。上手くいかないことがあったり嫌なことがあると、音は外れるしリズムも狂う。素敵なことが続くと、私の中でどんどん音楽は膨らみ、音色は澄み高く鳴り響き、私は幸福な気分で満たされる。
 始めから終わりまでそんな風に美しいまま終えられる日は拍手喝采なのだけれども、そういった日は本当に少なくて、ほとんどは、ハマったりズレたりを繰り返しながら、でもなんとか眠る直前の耳に綺麗な音の余韻が残るよう、気をつけて漕ぐ。だから昨日も、なんとか軌道修正しようと物事を前向きに捉えようとしてみたり、好きなコーヒーを飲んだりしたのだけど、そのそばから何か間の悪いことが起こるので、私の上に垂れ込めた黒い雲は膨らみ広がるばかりで昼を過ぎた頃には早く家に帰って眠りに入り、1日を終えたくなってしまった。

 でも、そんな日も、ふとしたことでそれまでの暗いのがまやかしのように気持ち晴れやかに澄み渡ることがある。

 くたびれながらも終礼を終えて職員室に帰ってきた私は、自分の席に腰を下ろし、日番から預かった学級日誌を開いた。これは毎日のルーティンで、日番の感想欄にコメントを書くのだ。「黒板を消すのを忘れなかった」とか、「朝早く来れた」とか、「体育が疲れた」とか色々書いてあり、読むと微笑ましく気持ちが和む。それに対して、「1日お疲れさま」「丁寧なお仕事ありがとう」時に「鍵閉め忘れ。明日もよろしくお願いします」などとコメントするのも良い仕事で気に入っている。
 今日は何て書いてあるかな、と楽しみにして開く。
 すると、「○○(私の名前)先生の良いところ」と目に入ってきた。あら、と思い読めば、「生徒への優しさを肌で感じられる」「怒ることが少なくて言葉の大切さがわかる」と書いてある。今日の日番は、と思い返したらクラスでいちばんのお調子者の子だったので「まったく調子のいいこと言っちゃって」と心の中で言った。しかしそんな言葉とは裏腹に明るく前向きな音楽が足の先から湧き身体に流れ出すのを私は感じた。私はとっても単純です。彼がこの日誌を書いているところを見ていた先生に寄れば、数人で集まって考えていたと言う。嬉しい。何が嬉しいかと言うと、(半分おふざけでも)私を喜ばせようとした生徒の気持ちもそうだが、それよりも、私が何を大切にしているのか、全てではなくともいちばん大切な部分を生徒が汲み取ってくれていることだ。

 そのあと私は家に帰るまで「正しく」過ごせた。坂の上から見る夜景、帰り道の鈴虫の音、連続する信号の青。私はそれらを見たり聴いたりするたびに私の歩と同時に進行する音楽が加速度的に膨れてゆくのを感じた。

 そうして家に帰ったあとは、しばらくリビングのソファに転がりながらインスタを眺めていた。そうしたら、友だちのおめでたい報告が流れてきた。上手くハマっているときは連鎖するように良いことが続く。報告の内容に驚きながらも、なんとも言えず幸せな気持ちになった。おめでたい報告って、受けた方もおめでたい気持ちになるから良いもんだと思った。
 私はなんとなく、「私も誰かにとって良いニュースになれるように色々がんばりたいわぁ」と言った。
すると不意に「自分にとって良いニュースがいちばん」と声が飛んできた。母だった。私のつぶやきを聞いていたらしい。その物言いにはなんだか言い聞かせるような重みがあり、思わず背筋が伸びた。
 ひとつ取られたと思った。母が私を思う気持ちは私が私を思う気持ちを凌ぐかもしれないことに、時として気付かされる。
 じんわりと身体に広がるぬくもり。私はそうしてまたひとつ幸福になってしまった。午前の憂鬱などもうどこにもなかった。趣味の悪い香水や羽虫の死骸がなんだったろう、その時の私には祝福的な音色と共に夕暮れの海のようなやわらかな優しさが全身に押し寄せるばかりだった。

 夜更け、布団に入って一日のことを考えながら、気が付いたことがあった。多趣味な私は景色を見るのも芸術に触れるのも文章を書くのも大好きでひとり遊びも大得意だけれど、私をいちばん幸福にできるものは、例えば、私を思ってくれた誰かの言葉、優しさ、そのぬくもり、そんな風に、人との関わりの中にあるということ。また私を不幸にできるものも同じく人との関わりの中に生まれるものであり、私はやはり、人の中に生きている人間であるということ。これは、初めての気付きではなく、折に触れて改めて気づき直すことなのだけれど、でもこのことに気付き直すことがあるたび、私はなんだかとても嬉しい気持ちになる。それは、生まれてよかったと思うような、根源的なよろこびなのだ。

 秋の夜風は窓の外を吹いていた。私の心は高鳴っていた。夜がいつもより賑やかに感じ、そんな日はなかなか眠りにくいもの。


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