しめやかな夜のひとり歩き
10.13
傷心の傷がひときわ深いときにどうするかと言うと、ひとりで一泊旅行をするのだ。ちょっとだけ良いホテルを取って。感情というのは煮詰めて煮詰めて煮詰め切ったら全て消えると思っている、またはそう思い込みたいタイプだから、ひたすらかなしみの根源について考える時間を設けるのだ。人によっては絶対にやめろと言うけれど、考えないでおこうと思っても考え続けてしまう頭のつくりゆえ、とことん考えてやろうと思うのだ。
こういうときは、いつも京都に行く。東山駅、三条駅あたりが特に好きだ。なんでこう京都が好きなのかと言えば、やっぱり良い思い出が沢山あるからだと思う。特に大学時代に京都にずっと通っていたのが大きいだろう。学生の頃に感じていた希望や華やぎという風に名前がつくものものが纏っていた"キラキラ"だけが、時間を経てもまだ大気の中に浮遊している感じがする。京都に行くと、京都で呼吸をすると、そのキラキラを吸い込んで気持ちが幾分かほころぶ。
一人旅と言いつつも、昼から夕方までは人といた。
モンブランを食べた。ハロウィンの月だから、コウモリ型のココアクッキーが載っていた。こういう小さな粋なものは、その大きさ以上の幸せをくれた。
モンブランを食べながら、好きな動物の話をした。私は動物は好きじゃない。臭くて汚いから。また、本能のままに好き勝手生きているから。
でも、キリンと言ってみた。頭に模様が浮かんだのだった。なぜかと聞かれたので、困ったけれど、数秒考えて、自然界のもののくせに模様が絵に描いたみたいに綺麗だから、と言った。言ってから、確かに私はそういう理由でキリンが好きだと腑に落ちた。海の生き物でいちばん好きなシャチもそうだと気づいた。人が作った観念で言えば自然に属するものなのに、絵に簡単に書けてしまうような、図形的で少し人工的な、色、形、模様。私にはそれがとても不思議に思える。
そう話すと、相手は妙に深く納得してくれ、今度は自分の好きな動物の紹介をしてくれたけれど、私はそれがなんという動物だったか、覚えていない。今の私には、他人に興味を持つということがとても難しい。今度シャチを見に行こうと言ってくれたけれど、シャチは、何かの踏み台にはできないと思う。とても大きく、強く、かっこいい生き物だから。
別れたあと、私はホテルにチェックインした。
暗い色調でまとめられている落ち着いた部屋だった。セミダブルのベッドの主張が大きい。品のある机と椅子もあり、小ぢんまりしているが良い部屋だ。
大きなリボンのついたシルバーのポインテッドシューズを、歩きながら脱いだ。ラメ入りの靴下を、片足ずつつまんで脱ぎ、放り投げた。ネイビーのニットベストと、きなりのブラウスも脱いだ。この二つは良い品物なので、雑にはしない、椅子にかけた。アクセサリーを取り外したら、キャミソールに、タイトスカート。そのままベッドにどぶんと沈んだ。だらしない格好だけれど、ひとりなのでいいのだ。
シーツの肌触りを確かめるように、手足をうごうごとしばらく動かしてから、枕をかきよせ、顔を埋めた。キャミソールも、スカートも、ベッドのシーツも、枕カバーも、私の肌の色も、ぜんぶ白だと思った。ベッドに一体化していると、清潔な香りに胸も少しすく感じがした。
晩ごはんをどうしようかと考えた。一人旅に来ているのに、人と別れたあとだとまた誰かと会ってご飯を食べたい気持ちになった。部屋が静かすぎるのもあったと思う。実家暮らしだと部屋にいてもなんとなく誰かの気配がするものだけど、本当に静かで、そうなると慣れない分急に心細くなる。一人暮らしの孤独ってこんなものかと思うと、一人暮らしの人の一部が気軽に隣人と話せる感じの立ち飲み屋に行きたがる理由とか、恋人を切らさない理由とか、わかる気がした。
京都にいる知り合いを3人誘ったら、全部申し訳なさそうに断られた。思えば三連休のなか日の夜、私と同年代、二十代半ばの人間であれば基本予定が入っているのだと気が付いた。ひとりでいると世界が自分中心でまわるゆえ気づかなかったと反省した。反省はしたが悲しかった。
少し前までどんなお店にしようかなど考えて気分をふくらませていたけれど、急にしぼんでしまったようで、どこに行ってもひとりだとつまらない気さえして、またベッドに仰向けになった。身体がずぅんと沈み込む感じがした。
「かなしみ」と言ってみた。「かなしみ」という言葉は、好きだ。「かなしみ」の、「しみ」ったれた響きが好きだ。「な」と「み」の前に小さな「ん」が入るのと、「し」の吐息感がそんな響きにするのだと考えている。かん、な、しゅいん、み。かなしみ。くちびるにつめたい響きだと思う。でもそれが好き。その裏には、私がかなしみさんともうかれこれ十年来の親交があり、特にこの一年はマブとも言えるほどそばにいてくれてしまったので、嫌いにならざるを得ないといったような、消極的な理由があるかもしれない。
「えーんえーん厭世」とつぶやいてみた。これは最近の私がかなしいときによく使う、オリジナルでマイブームな言葉である。
つぶやいて、じっと横たわっていたら、だんだん本当に涙が出てきて、出始めると止まらなくなった。
誰も釣れなかったことに泣いているのではない。それは確かに仕方ないとはいえ残念なことだったけれど、その残念な気持ちは満杯のコップに垂らされた一滴のしずくにすぎない。それを皮切りに、これまでの色んな悲しかったことが、溢れ出すように次々に頭に浮かんできたのだ。私は自分が思っていたよりも、色んなことで胸がいっぱいのようだった。
泣いている間、頭に古い記憶を蘇らせていた。昔、私が泣くたびに母が「やすもんくっさいなみだ」と言ったことだった。
「やすもんくっさいなみだ」そう吐き捨てられた小さい私は、部屋にこもって自分の泣き濡れた顔を鏡にうつしては、これは"やすもんくさいなみだ"なんか、と思ったものだった。"やすもんくさくないなみだ"はどんなんやろう、とも考えた。"やすもんくさくないなみだ"を流せたら泣いてもいいらしい気がした。でもわからなかったし、今も高い涙を流せたな、と思ったことはない。
涙が流れるとき、私はいつも、この言葉を思い出す。これって"やすもんくさいなみだ"なんかなぁと今でも思う。いつか、大切な人にも「敏感すぎる」と言われ、私は泣き「すぎ」なのかと考え込んだ。
でも、私が泣くときは、やっぱり本当に本当に、悲しいのだ。甘えたくて、かわいがってほしくて、もしくは許しを乞うために、泣いているわけじゃないのだ。小学生の頃、よくできたと思い持って帰って見せた自画像を目の前でびりびりに破かれたとき。音楽会のピアノオーディションに落ちた際ただでさえ無念さでいっぱいなのに母親にきつくののしられ叱られたとき。いつだって私がぼろぼろ泣くときは、悲しくて悔しくて惨めたらしくて、胸どころか身体までそんな気持ちでいっぱいなのだ。精一杯傷ついているのを、どうか「敏感すぎる」なんて「やすものくさい」なんて言わないで。私は泣くのは好きじゃない。私は、笑うことがいちばん好きだ。ずっとずっと笑っていたいと思っている。
とは言え私が人生の中で大切だ、大切にしたいと思った人は、私の涙を「安物」「敏感」と評するから、そうしたらもう、ときにその人よりも大切でなくなる自分の感情は、否定するしかなくなってしまう。
唯一、いつも人の中にいて笑顔を絶やさない私に、友人も同僚も生徒も、みんな私の笑顔を褒める中で、「あなたはこれまでたくさん辛いことがあったんだね」と言ってくれた人がいた。私はその人のことが大好きだった。でも、ご自身にも色んな辛いことがあったのだろう、この10月を前に消えてしまった。その人に会いたいと思った。でも会えないから、会いたいと思うほど泣けてきた。
つらかった。昔のことも、今のことも、やりきれなくて、枕はさらに濡れた。泣きながら、いつも涙を否定される私の涙を何も言わず受け止めてくれるのは枕だけになってしまったことに気がついた。
しくしくやっているうちに、平日の疲れもあり、いつしか寝てしまっていた。起きたら3時間後の21時だった。3時間も無駄に時間を過ごして厭世だ、と思ったが、気持ちは少しましになっていた。お腹が空いていた。
窓から通りを見下ろして、何か無いか探したら、やよい軒が見えたから、やよい軒に行った。
ちゃんぽんたべた。やよい軒のちゃんぽん好き。おいしい。ご飯もついてくる。汁を浸して米を食べる。おいしい。塩のきいた汁を浸した米、これを好きな全人類の平均的な熱量で、私も好きである。無論豚骨ラーメンには白ごはんを付けるタイプである。
ひとり客が多くて、隣のでっかいおっさんもひとりだった。三連休のなか日にこんなチェーン店でひとり飯なんて、うふふお互いにうふふ…と私はシンパシーを感じていた。おっさんが出た後に来たオトナな女性にもおほほ…と同じことを感じた。
「孤独は鳴る」って綿谷りさ『蹴りたい背中』の書き出しだったと思うが、孤独とは本当に、孤独を感じているものにしか聞こえないモスキートーンみたいな音を発して鳴るものなのだなと、中学生の頃に読んだその一節がはじめて腑に落ちた。しかしモスキートーンというよりは、メロディや香りのような、心身にしみてくる感じだ。
私の孤独が鳴り、隣人の孤独が鳴り、その交わりのすき間を、ちゃんぽんすする音が埋めてた。でも、孤独が交わったところで、溶け合うことはなくて、やはり私はひとりだった。静けさがかき消えるだけで。自分と同じひとりの人を見つけたという分、いくらかましになっただけで。
やよい軒を出て、少し考えた。ホテルに戻るのもいいけれども、もう少し賑やかな街の夜に浮かんでいたい気がした。私はひとりでバーに入った。幸いホテルのすぐ近くに見つかったのだ。
仄暗さの中に浮かんだ暖色の明りが落ち着く、いかにもバーという感じのバーだった。カウンターが埋まっていたので、四人がけのテーブルについた。
一杯目はブルームーンにした。これは私のいちばん。暇なのでカバンに入れていた江國香織の詩集を片手に読み読み飲んでいたら、途中でその詩集の名前が「すみれの花の砂糖漬け」だったことを思い出し、私はたいへん慎ましやかに嬉しい気持ちになった。ブルームーンはすみれの香りのするカクテルだから。
2杯目はお店の人におすすめされ、初めてジャックローズを飲んだ。アップルブランデーというのがあることを初めて知った。私はりんごが好きなので、好ましかった。赤いカクテルが、薔薇の花みたいな形のショートグラスに注がれて、見目よいカクテルが置かれた。甘やかな、気品ある味だった。
ジャックローズを飲んでいるとき、お店の人に「石とか好きですか?」と話しかけられた。バーのわりに珍しい、体育会の雰囲気を感じさせる明るい男性だった。店には私以外に、その男性と、奥にマスターと、あとカウンターに後ろ髪の長い女性が座っていた。
「石って、鉱物の石のことですか?」と聞き返したら、カウンターに座っていた女性が振り返り、「その言い方は、知ってる人ですね」と含んだ口調で言ってきた。その女性が石のマニアのようで、私が気づかない間、カウンターではそんな話がされていたようだ。
「正直なところあまり詳しくないですが、鉱物はロマンがあると思いますね」と言ったら、男性が「石好きって意外とおるもんやなぁ」と驚いた。私が来る前にいた客の幾人かも、石について少なからず興味を持っていたようだ。私は石好きではないのだけれど、そう思ってもらったのならそれでいい。
女性が石について熱弁するのをジャックローズを傾けながら聴いているうちに、ちょうど翌日まで、みやこメッセで石展をしていることを教えてもらった。3日間だけの限定展示らしい。
私が「いいですね」と言うと、女性は親切にも、コンビニで前売り券を買うと200円引きの上、石のデザインのノートと紙袋ももらえるということを私に教えてくれた。かなりのハイテンションだった。私の同意でそんなに楽しい気持ちになってくれるのなら、私は何度でも「いいですね」と言っていたいと思う。笑顔が快活な、気のよい女性だった。私はそういう人を男女問わず好きなようだ。私は彼女の厚意のためにも、明日は時間を作って石展に行ってみようと思った。ちゃんと前売り券も買って。
女性はそのあと、店の奥へ消えた。勤務時間を終えた店員さんだったのだ。店内に残っている客は私だけだった。
そのあとは男性と、私が翌日行く予定の神社の話をした。男性はその神社に大学時代の思い出が沢山あるそうで、その話を面白おかしく聞かせてくれた。チャージの細かなお菓子も小皿に乗っていたが、つまみ以上のお話で、楽しい時間を過ごさせてもらった。話がひと段落する頃、グラスも空いたので、そのまま帰ることにした。
帰るとき、店先まで出て「一人客も多いんで、どうぞまたいつでも来てください」とあたたかく送り出してくれた。「また来ます」と言って丁寧に頭を下げて出た。愛想ではなくて、これは私の本当の言葉だ。人のぬくもりがある店はいい。私は他人とのその場限りの会話というのに基本は積極的でないが、これは、胸に優しかった。
酔ってはいないが気分が良かった。バーでの時間が胸をやわらかに包み、いたみ止めになったようだった。
帰ってまたベッドに仰向けになった。なんだか開放感があった。
寝転びながら、私には少し、動物のように勝手気ままに生きてみることが必要だと思った。自分の慣習や、ルールや、固定観念の縛りを少しゆるめたら、その隙間に、自分に本当に必要なものが入ってくるかもしれない。
今日は夢にキリンやシャチが出てきたらいいと思った。私はいつも夜に夢を見ないけれど、今日は。そうしたら、背中に乗って色んなところに行ってみたい、そんな想像しているうちに、寝ていた。
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