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もう会えない人を思う

2024.9.14

 朝目がさめたら、悲しかった。夢を見ていた。疎遠になってしまった人が、記憶と同じ顔で笑っていた。まぶたの裏に・・・という表現は白々しいので今まで好きでなかったが、本当に、まぶたを閉じればもう一度そこにある気がするのだった。
 さめた夢ほど甘やかで切ないものはない。私は夢の中の笑い声や華やぎ全てを内包するぬくもりをまぶたの縁に感じながら思った。そのぬくもりから悲しさや切なさが生まれているのは、なんという欺瞞だろう。
 昔あったものが無いことだけが悲しいのでない。本当に悲しいのは、私の願望だった。夢の中で、私たちは旅行していた。8年以上前に、一緒に旅行したことがあった。たくさん笑い、夜遅くまで色んな話をした。彼女は私の大切な友達だった。夢は深層心理、私はきっとまたあんな楽しい旅行を一緒にしたいと心の奥で願っている。それに気づいたことが一番悲しかった。
 私は夢など、ほとんど見ない。でもごくたまに見るとき、それはいつも記憶の奥にあるものを掘り起こし、普段は意識に浮上することもない、胸の底に空いた黒い穴の存在を私に教える。意識してしまえば、途端にその穴を吹きぬける寂しい風の音が聞こえてくる。しかしそれを埋める術はないのだ。すると私はやりきれない。夢はいつも切ない。だからあまり見たくない。

 土曜日だけれど仕事があるため、重たい身体を起こした。いつもは朝起きたあと「今日もいい日にしよう」と意気込んだり「今日もいい日にする」と気丈に決意したりするのだけれど、こういう日は完全にウェットなモードに入ってしまっているから、湿った感情は諦めて据え置いておく。

 一階へと降りる階段の窓から外をのぞくと、朝焼けの空が見えた。燃えるような色をしていたが、どこか沈んだ色で、フレッシュなところはなかった。私はそれに心動かされることもなく、なにか音無き言葉を受け取ることもなく、ただ空があかいことを認めるだけだった。

 学校へ行くと、クラスの生徒がいつもより「お利口さん」だった。授業もどのクラスよりも熱心に取り組んでいて、終礼前なんて滅多にないことに私がくる前から全員席に着いていた。思わず「今日はどうしたの?終礼がいつになくスムーズですね」と言ったら、「先生がずっと連続で授業してるから気遣ってのことですよぉ」とひとりが言った。どこまで本当かはわからない。もしかしたら、私の沈んだ雰囲気を察知していたのかもしれない。もしくは、単に生徒たちも疲れていただけかもしれない。
 終礼前に座ることは基本のこととしてやってほしいが、したり顔でにたにた、いわゆる褒められ待ち顔をしている生徒たちがかわいくて、「話がしやすいし連絡がスムーズに伝わるから、すっごく助かる。今日はみなさん素晴らしい」と褒めた。
 そうしたら、終礼後の掃除が始まったとき、みんなして真面目な顔でせっせと掃除している。見れば、当番でない子まで混ざってせっせとやっている。なんたる優等生ぶり。私はなんともおかしくて笑ってしまった。そして、私は本当この子たちが大好きだな、と思った。私は新着任者、彼らは新入生だけど、このクラスで会えてよかったとも。こういう素直さや優しさは、輝かしい。人の可能性や未来の希望を感じさせてくれる。その光度、その温度、私の心の癒しだ。

 その夜、職場の人に誘われたミュージカル『ムーラン・ルージュ』を見た。劇団四季のミュージカルはたまに見るが、それ以外のは初めてである。どのようなものなのだろうと構えていたら、始まった途端、冒頭の過激とも言えるほどに華やかな演出に一気に引き込まれていった。特に一幕目の終わり、日本語詞のあてられたエルトン・ジョン「Your Song」を主演の男女二人が歌ったのは、私が元来この古い洋楽を大好きなのもあって胸がいっぱいになった。サビの終わりの“How wonderful life is while you're in the world”の音にあてた「なんて素晴らしい 君のいる世界」の繰り返しは、繰り返すたび心を打つようで、見終わった後まで切ない余韻を響かせていた。
 しかし私の意識は不思議にも二幕目の途中から会場という箱全体へと逸れてゆき、そして舞台上で進行するミュージカルを見る自分自身へと移っていった。今この時ミュージカルが上演されている。私は見たことのないミュージカルを見ている。初めて職場の人とプライベートで会っている。こんな事実の羅列が、この時に限り私にとっては何か大きな意味のあることのような気がした。


 終電に乗って最寄駅に着き、いつものように自転車を漕いで帰った。0時をまわった住宅路には私以外誰もいなくて、私を包むように夜があり、私に話しかけるように古い街灯が立っていた。
街灯の下を通るたび、私の影が現れ私を追い越していくのを眺めながら、私は今日一日のことを思った。ひとつひとつのことが何かのメッセージのように感じられていた。

夢に見た友達を思う悲しさは胸の底に消えずにあり、沈んだ音楽を奏でていた。しかしその上の方では学校での時間のぬくもりやミュージカルの華やぎが新鮮に輝いている。この乖離状態に、私はなんだか非現実的な気持ちになった。悲しさはきっとどこへも行かないのに、現実は進み続けて私に新しい出来事や出会いを運んでくること、そしてそれらが現在にある私の中に同居し続けることが、不思議でたまらなかった。全てが進んでいく一方で、昇華できない悲しさはどこにやればいいのだろう?

 しかしこういうことは昔からずっとあったように思えた。幼い頃、溝に落としてしまったかわいいお気に入りのピン留め。そこにあるのはわかっているのに拾えなかった。そのうち新しいものを買ってもらったけれど、落としたピン留めはきっと今も溝の中にあるままだし、失くして悲しかった気持ちも、幼い胸が成長しても消滅したわけではない。それと同じことなのだと気が付いた。

 彼女は今や結婚したと、風の噂で聞いた。彼女と会いたい、話したい、そう願っても、過ぎた長い時間の中で別の人となってしまった私たちには青春時代と同じ時間は二度と訪れない。鮮明に覚えているのに、記憶の中には確かにあるのに、現実に復元されることはない。落としたピン留め。
 振り返ると、そんなピン留めみたいなものが、私が歩いてきた道に、いくつか転がっている。落としてしまったきり、二度と取りに行けないもの。それらはずっとそこに在り続け、折に触れて、遠くから悲しい音を立て、その存在を私に思い出させる。
 私はそれに気づくたび、今日のように、悲しい気持ちになるだろう。拾いにいきたくなるだろう。でも全てはまだ見ぬ方へと進んでいて、直進するコンベアに乗っているみたいな私には、新しい出来事や出会いが訪れ続ける。私にできることは、それらを抱き留めて、今度は落とさないように、落とさないように、大切にすることだけだ。


 いつかまた会える。いつかまたできる。その「いつかまた」が二度と来ないこともあることを本当のこととして理解したのは、最近のことだ。それはとても悲しい、人生を儚むような悟りだった。でも、

“How wonderful life is while you're in the world”
「なんて素晴らしい 君のいる世界」

 頭から離れないこの切ないフレーズの「君」 は、手を伸ばせば触れられる存在であるとは限らないことに思い至る。記憶の中だけの存在であっても、それを思うことで悲しみが生まれても、大切な人がどこかで生きていて、その大切な人との大切な思い出が胸にあるから人生が素晴らしく豊かに色付いて見えるということが、きっときっとあると信じている。

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