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実用的か、鑑賞的か、それを決めるのは

司馬遼太郎氏の『夏草の賦』という小説を読んだ。

土佐(いまの高知県)から四国全土をたいらげた、長曾我部 元親ちょうそかべ もとちかという戦国武将をえがいた作品だ。僕は、学生時代にこの作品をはじめて読んだ。それから約8年。今回、当時は気がつかなかった発見があったので記事にしたい。

序盤に、こんな一節がある。のちに元親の正妻になる菜々という女性と、その乳母との会話だ。

赤い、まるで花のような芽がところどころに出ていた。
「だからあの木の名前はアカメというんですよ」と、乳母のお里はにべもなくいった。
「あら、あれはアカメじゃありません。カナメでしょう」

菜々とお里のうまれは異なる。現代でも、地域によって呼び方が異なる植物は多い。

「お里の村ではアカメなのね。すると、どちらが利口だろう
「なにが」
「アカメとよぶ村とカナメとよぶ村と」
「なにをくだらない」

カナメとよぶのは、この木を扇の要につかうところから出ている。その木の性質や用途から考えてできあがった名称で、単にその形や色だけをみてアカメとよぶだけの村よりも、大げさにいえば物事の見方に深さがありはしないか。そのかわり、「カナメ村」は村人の性格が実用本位で殺風景かもしれない。「アカメ村」のほうが、その点では鑑賞的で気はやさしそうである。

僕は最近、紙で本を買うことが増えた。電子書籍で買う本、紙で買う本、はっきりとした基準がある。それは、「情報として得たいもの」は電子。電子で読むものは、「消費」だと思っている。

一方で、紙の本は「ずっと残しておきたい・次の世代に受け継ぎたい」そういう「財産」になるような本だけを選んで買う。

僕は、本については、実用的でもあるし、鑑賞的でもある。

ただ、それはある意味で当たり前のことだ。もちろん、人によって考えに差はある。生まれた村では計りしれない個性がある。

その違いを生むのは、やはりその物に対する「愛情」に他ならない。

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長屋 正隆
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