ゆれる
「おじさんはどうしてこんなにあついのにこーとをきてるの?」
気温は32℃。日差しが照りつける公園のベンチに座っている、黒のトレンチコートを着た酒巻にランドセルを背負った少女が声をかけた。
酒巻は少し戸惑いつつ、少女に目を向けた後、俯きながら答えた。
「知らないおじさんと話しちゃダメって、先生に言われなかったかい?」
少女はしゃがんで、酒巻の顔を覗き込みながら、「ついてっちゃダメっていわれたけど、はなしちゃダメとはいわれてないもん」と口を尖らせながら言った。
酒巻は俯きながら、「そうかい」と苦笑した。
地面にぽたぽたと酒巻の汗が落ちる。それを見て、「やっぱりあつそう」と少女が言った。
「お嬢ちゃんは優しいね。でも、大丈夫だよ、おじさんは寒がりなんだ」と酒巻は答えた。
トレンチコートの下に何も着ていない酒巻の体は至る所から汗が吹き出しており、肌にトレンチコートが張り付いていた。それを不快には思いつつ、もう少しで中学生の下校時間だと、酒巻は心を躍らせていた。少女と会話しながらも、酒巻は頭の中で思い浮かべていた。自分がトレンチコートを広げる瞬間を。そして、それを見て驚く女子中学生の表情を。
「おじさん、へんなひとだね」少女は笑った。
「変な人じゃないよ。変態なんだよ」酒巻は少女の目を見て言った。
「へんたいなの?」
「そうだよ。それもとびっきりのさ。だから早く帰んな。ママが心配するよ」
「ママはしんぱいしないよ」
「どうして?」
「ママはおしごとがいそがしくて、いつもかえるのおそいから」
少女は悲しげに言った。酒巻は少女が着ているシャツがヨレヨレで黒ずんでいることに気が付く。
「そうかい。でももうおじさん行くよ」
酒巻は立ち上がる。少女も立ち上がり、酒巻を見上げた。
「もういっちゃうの?」
「そうだよ。もし、またおじさんを見ても話しかけたらダメだよ」
「どうして?」
「どうしても、だ。あと、おじさん以外で夏にコートを着てる人がいても、絶対に話しかけたらダメだよ」
「どうして?」
「変態だからだよ。お嬢ちゃんに怖いことするかもしれないよ」
「こわいことって?」
「怖いことは、怖いこと」
「でも、おじさんはなにもしてないよ?」
「とにかく、約束だ。変なおじさんにはついて行かない。話しかけない。約束だよ」
「うん、わかった」
「よし」
酒巻は歩き出した。少女は酒巻が去っていく背中を見つめる。
「おじさん!」
酒巻は足を止めた。
「わたしもかっこいいコートほしい。ふくがきたないって、いじめられるのいやだもん」少女は酒巻の背中に向かって言った。
酒巻は振り返らずに、また歩き始める。
黒のトレンチコートが、夏の太陽を浴びながら揺れる。