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とけて、秩序だつ。

ベッタリとまとわりつくような湿気を含んだ夏の温度に、若干の不快感を覚えながらも、自分の身体の軽やかな感覚を心地よく感じている。

この3週間ほどは今年一番の体調不良に悩まされた。寝違えたような背部痛が1週間続いたのち、40度近い発熱が更に1週間続いた。明け方には平熱に落ち着いたように見えても、午後にはまた高熱を出す、といった落ち着かない日々ををさらに足し算していたら、あっという間にお盆だ。

学校での最終週の授業を背中の痛みと共に過ごし、意識が朦朧としながら三者面談期間を迎え、急な発熱に怯えながら徳島旅行を行き来した。


そうして迎えたのが今日である。
ようやく、「考えられる頭」と、「痛みなく動く身体」を取り戻した。



しんどさと信じること


『風邪の効用』を読んで以来、発熱は身体のメンテナンスと捉えるようになって久しい。どうせ日薬でしか治らないのだから、前向きな意味を見出した方が過ごしやすかろう。

発熱を繰り返していた期間が最も辛かった。

39度を超える熱が続くと、全身痛がしんどいのはもちろんのこと、「悪夢のショート動画」がエンドレスで繰り返される。眠りたいのに眠れない、休みたいのに休めない、「観たくもないクソ映画」を、強制的に観させ続けられる(しかも眠ることさえ許されずに)ような日々が7日間も続いたのは、かなり僕の気力を削いだ。


この熱に魘されている時期のある夜に、「熱が出るに任せてうなされているとただ辛いだけ。一人で魘されているとその時間に閉じ込められる」とうわ言を発していた。

子どもだったり、妻だったりに触れていると、「いま・ここにいる」感覚を得られて、随分と苦しみが和らいだ。熱の悪夢の世界に溺れている最中での、有難い藁だった。

「能動的に、イマココにいようとすれば、辛さが和らぐ気がする。熱が出ている時間を幸福に過ごすには、意志が必要なのかもしれない。」そんなことを妻に伝えていたように思う。


『ネガティブ・ケイパビリティ』に触れてから、しんどい時期を過ごす際の自身の心持ちが、少しばかり安定するようになったように感じる。「時」の力、「命」の力への信頼度が増した、ということなのかもしれない。あるいは「プロセス」への信頼か。


「意味など要らない」と、辛い現実・起こってほしくない未来に対して、「意味のために傷つく」事象を呪ったのは今年の春だ。

同時に、「意味を見出す」ことに癒されたり、束の間の痛みの軽減を受けとったのが今年の夏だ。

A→B(AならばB)のような、単純な因果関係を盲信することからちょっと距離を置いて生きるようになったのがここ数年の暮らしのスタンスではあるのだけれど、「AとBの縁起を見出す」意味合いでの「繋がりを見出してみること」は、アウェアネスを高めることに繋がっていくのかもしれない。


人生の総動員感覚


高校職員として働き始めて4ヶ月が経ち、日々を振り返るとよく、こんな言葉が浮かんでくる。

それは、スキル的な側面(コーチング的な関わり・コンサル的なプロマネ遂行やプレゼンの準備段取り・タスクマネジメントなど)で「自身のシーズを活かせている」感覚から始まり、ロール的な側面(親であり、子であり、かつて高校生であった)で複層的に当事者に関わる感覚へと拡がり、個の心身キャパを考えたり、集団を形成する一部の要素としての影響力を感じたり、といった範囲への拡がりに対する意識が要因なのだろう。


生徒と話すのがメインではありつつも、親御さんとやりとりすることも少なくない。「居場所のいづらさ」への共感もあれば、「余裕のない中での日々の遂行」への共感もある。

生徒たちは僕の子どもよりも10年以上年上で、親御さんたちも同様に10年以上は先輩の方々ではあるのだけれど、それでも日々接する中で感じるのは、「自分の中に蓄積されてきたもの」とのフラクタルな関係性だった。これは、ライフコーチをやっている中で感じる以上に、当事者性を強く色濃く感じる体験でもある。


高校生活の支援というのは、なんて広範で、奥深いものなのだろう、と感じる。教育機関の職員として「当事者性を持って遂行する業務」がたくさんあるからそう感じる側面が強いのかもしれない。教科教育を抜きにしてさえそう感じるのだから、「人が育つ過程」に関わるというのは、膨大な事象が詰まっている時間なんだということを痛感する。



焦燥感と余裕感


「自分を持てあます燻り感覚」に悩んだ時期も長かったのだけれど、今はその感覚とは真逆だ。「どうすればもっと自分の持っているものを活かせる(カバーできる範囲を拡げられる)のか」といった問が常に座右にある。20代の頃には「焦燥感」として現れていたように思うけれど、今はそういう「ネガティブ」な感覚とは違う。そこにある種の「心地よさ」があるのかもしれない。


前者が「足りないものを手に入れなければ」、と踠く感覚だったとするならば、後者は「今持っているものをどう活かそうか」と遊ぶ感覚に近いのかも。気持ち的な余裕が、全然違う。


無論、「教育現場に必要なものを全て僕が兼ね備えている」わけでは決してない。教員免許もないし、授業力もまだまだだし、進路システムや学校にできることへの理解だってまだまだで、ICTの知見も生徒の方が数段上。


土台、「一人で全てをカバーする」なんてことが無理なことが明らかで、足りない力も足りないリソースも明らかで、毎日が自転車操業であるのだけれど、それでもどこか、「在る土台」に余裕が在るように感じる。ちょっと不思議な感覚。

あるいはこれを、「自己信頼」と呼ぶのかもしれない。


背負い過ぎれば押し潰れる、怯え過ぎれば意味を成さない。絶妙な距離感覚で、人とも、業務とも、暮らしともバランスをとりながら暮らすことがとても大切な領域だと感じる。心身の調子を崩してちょっと傾くことはそこそこの頻度であるけれど、まぁ「自転車に乗れるようになろう」とする時期には自然なことだろう。


正直に言えば、40度近い熱が毎日出る中で、毎日4、5件のご家庭の三者面談が詰まっていた1週間は、僕の社会人人生の中でも5指に入る「しんどい」時期ではあったし、「これどうやって乗り切ったらえぇねん」と途方に暮れていた時期でもあったのだけれど、「まぁ、なんとかなるだろう(あるいは、するだろう」)という感覚もあった。


熱が下がって、体調が平常に戻り始めたことを実感できている今日、今、これを書いているこの瞬間は、よりその「なんとかなる」感覚を取り戻している。休み明けからもスケジュールびっしりだし、夏休み明けの登校率が心配だったりするし、3週間も寝込んでいたから体力はゴッソリ減ったし、挙げれば「不安」は目白押しだけれども。

でも、今これを書いているこの瞬間の心は、凪いでいる。



メタモルフォーゼ


さなぎの変態期を終えて、羽化が進んできたということなのかな。


ライフリーダーシッププログラムで贈られた「青と黄の蝶」を思い出す。

夏の半ばに差し掛かって、ようやく「蝶」が顔を出し始めたのかもしれないね。





ここまでお読み頂き、ありがとうございました!


どこか「仕方ない」と自分の生を諦めていた僕が、人生を取り戻したのは、自分の願いを知り、これを指針に生きることを選び、行動を重ねてくることができたからだなと実感します。


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