tomarigi 開業から、3周年。
さて、世界にどれだけ居場所が増えたかな?
人とお話しすることを通じて、「人生の転換期」に向き合うお手伝いを始めてから、丸3年が経った。
独立1年目
勢いのある立ち上がり
独立したその日は、子どもが生まれてくる2ヶ月ちょっと前。初めての個人事業。先行きの不安と、「天職に出会えた」高揚感とが沸騰して、蒸気機関車のような在り方で直走り始めたのだった。
子どもが生まれるその日までは、「コーチングとはなんぞや?」を毎日のようにラジオライブで語りながら、その熱に触れて下さった方々が、僕のサービスを手に取って下さっている日々に支えられていた。
話すほど、セッションするほど、その体験をいろいろな場で口々に語って頂き、おおいに未来が開けていく感触があったものだ。
それも、2ヶ月しか続かなかったのだけれど。
新生児のいる暮らしとフリーランスの壁
子どもが生まれてから3時間ごとにミルクをやる日々が始まり、自分の仕事に割ける時間は目に見えて減った。売上もパタリと止んだ。
「育休をがっつり取れた!」というのは、僕が子どもを欲しがった背景からも嬉しいことではあったのだけれど、「活動を止めれば売上も止まる」フリーランスのメカニズムにぶち当たった気持ちだった。
対外活動とご縁で紡ぐ暮らし
それだからこそ、おむつ替えやミルクやりに少し慣れてからは、空き時間で精力的に活動を続けようとした。THE COACHのプロコース、山口周さんの
さんのプロジェクト(『ビジョンクエスト』)に携わりながら、ラジオで現在地を語り続けた。
THE COACHのアシスタントをする中で出会った方や、読書会・過去のプログラムでご一緒した方、同期などが立て続けに長期契約をしてくれたり、ラジオを通じて仲良くして下さった方々が僕の新しい試みを面白がって買って下さったり。
そんなご縁のお陰でなんとか、日々暮らすだけのお金を頂くことができていた。
それでも、急な物入りはある。大きな失敗もある。
キャッシュ破綻の足音
当時は「空き時間で少しでも利殖を」と考えていたこともあり、先物取引に手を出していた。初めて数ヶ月で2ヶ月分の暮らしを支えられるほど利益が出ていたこともあり、自分たちが「墜落せずに暮らせる」期間を細々と伸ばしていた。
・・・のだけれど、大きな利益を見込んで勝負の張りをしていたところ、利益が全部吹っ飛んだばかりか追証まで必要になり、逆に1ヶ月分の資産がなくなった。賃貸住宅の更新代金を払える見込みが、立たなかった。
毎日エクセルと睨めっこして、いろいろな支出を削っても、貯金が底をつく具体的な日付が、近づいてきていた。
群馬への移住
子どもはハイハイをするくらいまで育っていたこと、生活コストが高すぎることを踏まえて、住まいを変えることにした。最初は郊外で探していたものの、僕の実家で暮らせることになり、生まれ故郷へと移住した。
両親と妹が子どもの世話を献身的にしてくれている中で、「これを機に生活コストを圧縮して、自分の商売を軌道に乗せるぞ」と奮起。個人向けのサービスだけでは暮らしが覚束ないなら、法人向けのサービスも考えよう。
ニーズを調べるつもりで、転職エージェントに連絡をとった。カジュアル面談で話す中で、企業の困りごとと僕のできることを繋げる余地を調査するつもりだった。
だけれど、その中で「一緒に働きたい」と思える組織と出会う。
妻との二人暮らしではフルタイムで働く選択肢は考えられなかったけれど、子どもを一緒に見てもらえるこの環境でなら、両立ができるかもしれない。そうして就職し、コーチとのパラレルキャリアが始まった。
独立、出産、移住、就職。
1年も経たずして、立て続けに大きなトランジションに向き合ったのだった。
独立2年目
波に乗る立ち上がり
新しい職場での最初の期間は、とても刺激的で手応えを感じていた。コーチ活動・SNS活動を通じて出会った方々とのご縁で、商談の機会を頂いたり、困りごとを聴かせて頂けたりしていた。僕個人として切り拓いてきたものが、新しい暮らしの味方をしてくれている。
コーチ活動においても新規の長期契約を複数頂いたり、セッション単価も最高額を更新した(このnoteの執筆時点での僕のコーチングセッションFeeは、44,000円/回である)。
他方で、プライベートでは苦難に出会ってもいた。フルリモート・フルフレックス。動き回り始めた子ども。新しく慣れない環境でしんどい想いをしている妻。異なる価値観に戸惑う両親。家にいるが故に、僕も仲介に入る頻度が増えていった。感情的なハブになるのが僕の役目、とも思っていた。
暗転
春を迎え、チームメンバーとの合宿。2022年の最も思い出深い体験となるくらい、ワクワクしたし、楽しんだ。そこからの新しいチャレンジにも希望を持った。
だが、ベンチャーの新規事業。順風満帆なことばかりではなかった。
引き継がれた案件で、洗礼に合う。複雑な構造、これまでの人間関係や暗黙の了解が膨大にある役割。梯子を突然外されたかのような状況。事業目標に応えていくために高まるチーム全体の稼動。僕も、メンバーも、泣いている場面によく出会うようになる。
研修講師の役割へのチャレンジ、ということもあり、対法人の仕事において自分のリソースを活かすためにも、「資格を」とコーチングの研鑽にも心血を注いだ。早朝、夜遅く、土日。セッション、動画、文字起こし、振り返り。それでも試験には受からなかった。
休みもなく、余裕もない僕は、子育てや、家事や、家の中での役割をも、ほぼ果たすことができなかった。
「子どもと一緒に過ごす時間を大切にしたい
」からコーチになったんじゃなかったっけ?仕事や住まいを変えてきたんじゃなかったっけ?なんで僕は、30分も子どもと過ごせさえしないんだ?
毎朝起きたら、涙が止まらなくなっていた。適応障害だった。
「休む」に向き合う
総務ストップ、ドクターストップがかかり、僕の「体外的な」仕事や挑戦は、ほぼ全てが緊急停止した。
(その中でも、僕を選んでくださったクライアントさんとの関わりは続けてきた。社会とのつながりが突然断絶した僕は、とても救われた。)
何もしないのは落ち着かない。組織の仕事が無理なら、せめてコーチ活動の構築を・・・。セルフブランディングの学校に通っていたこともあり、やりたいこと・つくりたいものはたくさんあった。
でも、思うように身体が動かなかった。
文字が読めなくなった。
妻の復職、役割の交代
延長してくれていた育休を終え、妻は新しい仕事を始めた。地元で子どもの入れる幼稚園を見つけ、機を同じくして慣らし保育・入園に向き合った。車も買った。
妻がフルタイムで働き、僕が子どもの送り迎えと食事の用意をする。今までの役割を交代した、新しい暮らしだ。
ただ、すんなりと交換できたわけではなかった。僕は「できれば家事も育児もせずにずっと寝ててください」と医者から言われるような状態だったし、投薬も拒んだ。車の運転ができなかったら、子どもの送り迎えができない。家に子どもがずっといても、世話をできる体力が当時の僕にはなかった。
復職する望みも捨てていなかった。
なんとか回復し、せっかくのこの期間の間に未来への仕込みをして、再挑戦するぞ・・・!
そうできない期間が結局、1年半にも及んでいる。
がんばることを、やめられない
「この体験を無駄にしないぞ」
「組織の働く環境を良くするためのプロダクト」を届ける仕事をしていた背景もあり、「僕が適応障害・休職に至った構造を解き明かしたら、復職した後に役立てられるかもしれない」。そう思い、noteを毎日描き始めた。狂ったように。結局それは87日間続いた。
休職期に向き合うことになる感情、ままならなさ。それまでに活動してきたコーチ経験を棚卸したコンテンツ作り。クライアントさんにラブレターを書くように選び抜いたテーマ。
ご飯を作り、子どもを送り、noteを書いて、子どもを迎え、お風呂に入れ、ご飯を作り、部屋を整え、合間合間でクライアントさんと連絡をとる。
ただ寝ているなんて、とんでもない。そんなことできるか。
僕の症状は、改善しなかった。休職期間が伸び、退職せざるを得ないほどの時間が経っていた。
独立3年目
逆算思考を手放し、イマココを満たす選択へ
ガンバルことをやめられないで動き続けていると、身体が白旗をあげてストライキをする。もう動けない。
休職前にカウンセラーさんから教わった「メンタルダウンからの回復には4つの段階がある」というお話を痛感していた。
「休むのに慣れる」までは、「本当に休める」回復は始まらないのだと。
サウナや、誘導瞑想や、調理器具や、昼寝を最優先にするスタンスや、家族理解の深まりなどを通じて、僕はだんだんと「休む」ことに慣れていった。
そうして、「役割」と「使命感」と「後ろめたさ」にがんじがらめになっていた状況から抜け出すために、「未来をより良くするための努力」を、手放した。
代わりに、僕の中でとても小さく湧いていた声を、聴くことを選んだ。「絵を描きたい」から、アート合宿へ行った。
「昼しか活動できなくても人と繋がりたい」から、昼活部をつくった。
「守破離の守にけりをつけたい」から、コーチの資格に再挑戦した。
「できないこと」だらけになったけど
代わりに、余白が増えた。
最優先で「休む」を選ぶことを、学んだ。
次第に回復してきて、意欲が出てきた。
「できない僕」に、「いるだけでいい」と言ってくれる人が、何人もいた。
家族が、妻が、子どもが、支え続けてくれた。
僕が特にコーチとしての活動をずっとしなくとも、僕のサービスを求めて下さる方々がドアを叩いてくれた。
会いにいけない僕の代わりに、群馬まで会いにきてくれた人が十数人もいた。
キャパも、認知能力も、ガッツも、以前の僕よりはきっとなくなってしまった僕だけれど、今の僕は今の暮らしを愛しているし、僕として生きている人生を、愛している。
在り方が整ったからか、コーチの試験には合格した。
再び社会と繋がり直す
すっかり今の暮らしに慣れ親しんだものの、子どもも育ってきたし、妻にも人生を通じてチャレンジしたいキャリアの野心がある。物入りだ。
本を読んだり、場を主催したり、ラジオコラボをしたり、noteを書いたりする力は、僕のもとに戻ってきていた。
そうして、長らくバラバラに砕け散っていた、「はたらく」意欲も。
妻が見つけてくれた求人は、心踊るものだった。
僕のこれからと、僕のこれまでを、見事に繋ぐような仕事。
コーチとして対人支援をする上で、より「現実に願いを実装する」選択肢を飛躍的に増やしてくれる体験に繋がりそうなこと。
リアルな居場所で、人と関わりながら挑戦することができること。
4月から始まる、再挑戦だ。
独立4年目
今日から、4年目。
今までセッションをお受けできていた時間に、お受けすることができなくなる(多分、日曜日限定で、かなり絞られた人数だけだ)。
2年目と同じ轍を踏まないように、「休みを差し出していっぱいいっぱいに頑張る」ことは、選ばない。
それでも、これまで僕を選んできて下さった方々の挑戦に一緒に向き合いたいし、より多様性溢れる社会における人生にたくさん触れることになるこれからの僕の在り方は、より器の広い・深いものとならざるを得ないだろう。
僕も、相変わらず挑戦者で居続けるのだ。
「子どもが欲しい」「誇りに思える仕事をしたい」「妻とチャレンジし続けたい」。
僕が「人生の指針」にした願いは健在で、これを叶え続けるために、挑戦のやり方と場所を変えながらも、向き合い続けている実感がある。
「何かができるから」といったPRは、あえてしない。
僕のこれまでの物語と、書いたもの、語る声に触れていただき、あなたが「生きたい場所」へと繋がっているな、と感じられたなら、声をかけて欲しい。全霊で応える。
僕も、その当事者の一人だから。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました!
どこか「仕方ない」と自分の生を諦めていた僕が、人生を取り戻したのは、自分の願いを知り、これを指針に生きることを選び、行動を重ねてくることができたからだなと実感します。
コーチングを学んだことで、僕の変容は加速しました。
労働観が変わり、人生観が変わり、生きる質感が変わった。その感動を届けたくて、コーチの仕事をしています。
そんな僕の挑戦の原点にある想いを綴ったnoteはこちら。
コーチングに触れて、ガラリと人生が動いた話はこちら。
「居場所で人を自由にしたい」想いをインタビュー頂いた動画はこちら
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ご自身の価値観を整理したり、居場所を探していくための構想を、「喋りながら考えてみたい」という方向けに、頭の整理にお付き合いするサービスを提供しています。
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現在はご紹介のみで承っておりますが、ご興味のある方はお問い合わせいただけますと幸いです(公式LINE)。
🔸公式LINE
また、直接まーと喋ってみたいぜ、という方は、気軽にLINEで話しかけてもらえたら嬉しいです(公式LINE)。今は平日10時~14時くらいの時間に話せることが多いです。
「あなたの物語に共に出会う嬉しいその瞬間」を、今から僕も心待ちにしております。
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