【stand.fm】ゆるいのに何故か濃く繋がれる、そんな場所

こんばんは、まーです。

 stand.fmで「まーちゃんねる / 人とのかかわり方の実践放送」という番組を発信しています。3/24に始めて今日でちょうど二か月。「とにかく毎日収録」だけをテーマに続けてきたのですが、今ではすっかり私の生活に溶け込んでいて、「暮らしのアップデートツール」と「居心地のいいサードプレイス」として機能しています。前者については先日のnoteで記載したところですが、後者のいわゆる「居場所」としての機能についても考えていたところ、あやたんさんの下記のツイートを拝読しました。

 これは「僕がstandfmを創った理由」というテーマで書かれたnoteの公開に先立ち、中身を先出しされている連投ツイートの一部ですが、「ゆるいのになぜか濃く繋がれる場所」というのがとても私の肌感覚にしっくりきたのです。シンプルなUIで使いやすいアプリですが、使い方や生活の中での位置づけを誰に教わるでもなく、2か月間使い続けてきて気付いたSNS性やあたたかみは、実は設計上大事にされていた感覚だったんだな、と知ってすごいプロダクトだな、と思いました。このツイートに続く「優しい場所」「居場所」「コンテンツ」といったコトバにも感じることがあったので、頭の整理もかねて文章を書いてみることにしました(音声で喋りながら考えた今日の収録はコチラ:「84 ゆるいのに何故か濃く繋がれる、そんな場所」)。


1.stand.fmでユーザーができること

 ユーザーが能動的に使える機能は大別すると「音声収録」と「LIVE配信」。これらに紐づいて「テキストでコメント」・「レター送信」を行うコトができます(更にLIVEには課金コンテンツとして贈り物があります)。音声でコンテンツを作ることができて、テキストで反応できます。収録・LIVEのアーカイブは自分のプロフィールページにストックしていくことができ、同ページでは他のメディア(YOUTUBE、Twitter、Instagram)と連携もできます。他のユーザーはこうして日々生成されるコンテンツに、「聴く」・「参加する」・「コメントする」・「レターを送る」といった接点をもつことができます。「LIVE配信」にはリアルタイムなインタラクティブ性があり「交流」接点としてわかりやすいですが、実は「音声収録」でもコメント・レターといった機能で、「聴いて終わり」「発信して終わり」ではなく、その先でユーザー同士が交流することができるんですね。


2.音声コンテンツの特徴から「優しい場所」を考える

 ユーザー同士で交流しているとよく、「stand.fmのユーザーは優しい」「あたたかい」といった言葉に出会います。これはなんとなく、「リスナーは同時に配信者でもあり、立場や感覚に共感できるからなのかな」とだけ考えていたのですが、Twitterと比較してみるともっとたくさんの理由があるように思えてきました(「聴き専」、「LIVE専」のユーザーも少なくないし)。

 Twitterは限定された量のテキストの発信メディアであり、リツイート機能やリプライ機能があります。自身のアカウントに紐づいて「テキスト」コンテンツをストックしていくことができ、ブログに比して交流のリアルタイム性が高く、「認知の拡散性」に特徴があります。情報量の限定性から、1コンテンツ単位(1ツイート)自体が含有するコンテキスト性は低く、受け手の解釈の余地が広いです。このことが「炎上」「攻撃」といったTwitterの負の側面を生んでいると捉えています。「小分量の文字テキスト」は一覧性が高く、コンテキストからの切断が容易で、ボタン一つで拡散することが可能。記号としての文字情報だけに変換されたテキストは、匿名性と相まって、社会性に乏しい行為を実行するハードルを下げているように思います。別のコンテキストに位置づけるよう悪意をもって「編集」し、「拡散」することが容易なのです。「安全圏から大した手間もなく他人を攻撃する手段」として使えてしまう点は「公開性」×「拡散性」×「テキストコンテンツ」の道具利用可能性としての負の側面だと思います(無論、サービス自体の善悪の話がしたいのではなく、ユーザー意図の実現可能性を考えています)。

 これに対して音声コンテンツは、「一定の時間をつかって聴かないと中身がわからない」といった情報特性をもっています。パッと目についた情報に脊髄反射で誤解を生んだり、悪意をもった利用をする上では、これがハードルとなります。一瞥して不快な情報をダイレクトに受け取ることもないし、きな臭さを感じたら全部受け止める前に遮断することができます。またテキストと違ってコピペができるわけでもないので、二次編集のハードルが高い(利用したい部分を切り取り、アップロードし直して、改めて発信する必要がある)。加えてコンテキスト性も高く、1コンテンツ単位(1収録)でみたときの受け手の解釈の余地はテキストコンテンツに比べて低い(=誤解が生じにくいはず)。もちろん、政治家等の「失言」報道に見られるような編集自体は可能ですが(部分で切り取られた「ことば」がもつ情報は再発信主体の意図次第で何色にも染め上げられる)、ライトなユーザーがそこまでするのは結構なハードルだと思います。音声コンテンツは、ツールとしては攻撃性を発露しにくいです。

 ここまでは、生成された情報の受け取り手としての目線で、「他人の発信の編集可能性」「1コンテンツ単位あたりの情報の受け取り方」に着目して考えてきました。stand.fmにはリツイートのような拡散機能がないこともあって、「誤解」「悪意をもった編集」を用いた拡散が起こりづらい。そういったツール特性があるように思います。

 発信主体として音声コンテンツを捉えたとき、「肉声であること」は匿名性を減じます。発信者として表明する際に、「自分の名に負って」反響があるだろう、と想像する意識が少なからずはたらくように思います。そういう身体性を伴うことで、発信内容の社会性が高まるように思います。これが共同体形成上の負の側面の出し辛さとなっているのかなと。攻撃性を排除し、接点を持つユーザーにとっての「優しさ」が発露しやすくなっている一因と捉えています。


3.閉じたコミュニティ(空間・時間)

 stand.fmのUIでは、番組のタイトルとサムネイル・概要の情報を知ることができますが、ユーザー情報はタップして中身を見に行かなければわかりません。前述の音声コンテンツの特性と相まって、空間としてそれぞれのユーザー世界は閉じられています(タイムラインのように中身駄々洩れではない、という意味で)

 「LIVE配信」はユーザーの色に応じて十人十色の世界を形成していて、温度感も空気感もかなりバリエーションがあります。リスナーが色んな配信をミツバチのようにハシゴして他花受粉が起きる面もあるけれど、基本的には音声の送り手としてのLIVE配信者の世界観の中で過ごすことになります(配信者がユーザーとのインタラクティブ性をどの程度高めるか、という部分で居心地も全然違う)。ユーザーは自分の肌感覚に合うLIVE空間を自由に選ぶことができます。どの「コミュニティ」で時間を過ごすかの選択は、参加するリスナーに委ねられている。stand.fmにおける「好き」で繋がる感覚は、こういった空間形成からも生み出されているように思います。「音声で発信:文字で応答」という空間ですが、より情報量の多い「音声」の発し手が空間の色を決めます。文字での応答は(タイピング・フリック速度の制約もあって)限定的になるから、一人のリスナーがその空間を占有し続ける、ということも軽減され、「それぞれのリスナー - 配信者」の接点はLIVE参加者全員に広く開かれています。閉じた空間の中で、インナーとしての関係性は開かれている。「テキスト応答」という情報量の制約があるから、配信者へ言葉を投げかけやすい。これがstand.fmのLIVE空間で人間関係の「近さ」を生み出しているように感じています。配信者がつくりだしている世界観が心地よい人が集っているから、リスナー同士も「似た部分」を見つけやすくて、繋がるきっかけにもなっている。アーカイブしなければ「その時」にしかその空間は存在しないし、アーカイブしたとしてもリスナーのコメントは残りません。こういった意味合いから「空間・時間的に閉じた」コミュニティが形成されています。リアルタイムでこういう「場」に居合わせた者同士は親近感をもつし、「残らない」部分があるがゆえに「深い」やりとりも生じうる。「近くて」「深い」関係性が、LIVE空間を通じて作られている

 「音声収録」はコンテンツ個別にコメントを付すことができるし、これに紐づけてレターを送ることもできます。「場を同時に共有」することはできないけれど、音声コンテンツを受け取った側は、その「収録」がストックされている空間(1コンテンツごと)に入り込んでテキストで応答することができます。このあたりは、FaceBookを利用したオンラインサロンに近い面があるのかも。発信者からの投げかけ(収録放送)に対して、リスナーが感じたこと・気になることを返すことができる。ここでも接点ができて、交流が生まれます。リプライ機能(というか、自身のコメントに対する返事の通知機能)が無いから、ある収録放送のコメント欄で盛り上がっても、発信者以外の人は気づくことができないけれど、「収録」というコンテンツごとに閉じた空間でコミュニケーションを図ることで、より深い関係性を築くことができるように思います。コメントくれた人のことはやっぱり気になるからプロフィールを見に行くし、そうするとその人がストックしてきたコンテンツや外部メディアを見ることができるし。「接点」から生まれた交流は、お互いのプロフィールページを行き来することで、関係性を深めていくことができます(一方的な情報理解をして、今後のコミュニケーション上の活用、といったことだけど)。レターは匿名が基本だけど、記名すれば同様の行き来はできます。レター機能のおかげで、それを題材にコンテンツを積み上げていって、人と関わるための表面積が大きくすることができるのもありがたいですね。

 プロフィールページ(これもユーザーごとに閉じられた空間)に情報をストックしておいて、ユーザー同士はそれをみて交流することができる。これには斉藤孝さんの「偏愛マップ」的な効用があります。「相手が興味あるコトのお品書き」が並んでいて、その中から自分の興味あることを選んで接点をもつことができる。相手は「話せる分野」だし、自分は「興味のある分野」。これが交流をしやすくしてくれていますよね。


4.権威性の一部排除(フォロー数 / フォロワー数 / 再生回数の非公開)

 stand.fmでは、他のユーザーからはこれらの数字がわかりません。実は私の収録テーマでもっとも再生されているのは「フォロワー数」に関するもので、ユーザーの関心事ではあるのだろうし、「見えないからこそ気になる」ものなのかな、とも思いますが、「数の大きさで接する相手の選別をさせない」という思想なのかな、と捉えています。Twitterではこのあたりが「有益性」の判断指標とされていたりするんですが、「有益・無益」で選別される世界は、優しくない。審査制のあるVoicyと違って発信者ポジションの民主化が図られているのに、せっかく発信しても「数字が無いから聞いてもらえない」「接点をもてない」というのでは、心が折れます。あくまで【「テーマ」「カテゴリー」「パーソナリティ」といったものさしで】気になる人を見つけて、自発的につながっていくことができる、というのが重用なんだろうな、と感じています。元々何の専門性も発信軸においていなかった私は、興味をもってもらう接点作りのために「隠れた数字の開示」を営業戦略として選びましたけれど、それらの数字が公開のインフラとなってしまうことは望んでいません。古くからのユーザーでも新規ユーザーでも、発信内容で接点を生んでいくことができ、関係性を始める上で排除にはたらきかねない「数字」をあえて出さないのが、関わり合う上で優しい場所をつくっているのかも。

 なお、「一部」としたのは、もともとのユーザーのネームバリュー(各界の著名人であるとか社会的ポジションなど)であったり、「♡」のついている数であったり、「おすすめ」として推されたり、といった側面の権威性は存在しているからです。ユーザーの母数を増やすために、「サービスを使い始めてもらうフック」としての権威性は必要、ということなのでしょう。


5.おわりに

 冒頭で紹介したあやたんさん(@ayatan48)のツイートをきっかけに、長々とstand.fmで感じていたこと考えていたことを文章にしてみました。

「ユーザーが全体的に優しいのはなんでだろう?」「特に何を教わるでもなく、近くて深い人間関係が形成されるのはなぜだろう?」といったことはこの2か月間を通して気になっていた事柄だったので、自分の頭の中の見立てを整理するきっかけになってよかったな、と思います。当たっているところも外れているところもあるでしょうが、あやたんさんのnote公開が待ち遠しいですね。それにしてもあらためて、このプロダクトを作っている方が「大切にしたい」と考えていた感覚が、ただ使ってきただけでユーザーに届いているのは本当にすごいことだと思ったし、「心地よい居場所」をもたらして下さっていることに感謝しています。私もこれから「優しい居場所」を、増やしていけたらいいな。

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