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稽古考19

■ 2002/12/13   「礼について」考 その4

「今日は何を稽古するのか」の意味を考えながら我々は稽古に臨む。何処の道場でもそうでしょうが、指導者が技の説明をまず「前立」でおこない、それから技にはいる。今日はこの技の何処を重点的に稽古して欲しいかを必ず説明します。

稽古生はそれを技の中で行うわけですが、「前立」で指導者が「表技」をやっているにも関わらず、「裏技」をやっている道場生。最後の「極め」の部分のみに気持ちがいき、捌きと入り身、転換は埒外。そっちのけで技をしている道場生。「何をかいわんや」です。

説明を「聞いていない」。これは論外。説明を「聞いてもそのように出来ない」。これは仕方ない。説明を「聞いてはいても、そのようにしない」。これは「礼」を逸している。技の解釈がどうのこうのと言う問題ではない。「習う」以上、指導者の技、及びその意図するところを真剣に稽古することが求められる。これをしないのは、正しく「礼」に反していると言わざるを得ない。と、私は思う。

その関連で言えば、稽古中、師範が「前立」で技の説明をしている時に、道場に入ってくる(最近は皆無になりました)。或いは、道着や帯を直している稽古生。これは明らかに「礼」を逸している。謹んでほしいものです。

野村師範が平成5年に書いた「合宿研鑽によせて」のレジメが私の手元にあります。私はこれを座右に置き日々研鑽しています。  抜粋します。

「基本の技について」の項目から、(・・・・前文略・・・・)人による技の違いも当然認められます。ただそれは呼吸技の領域であり、こと基本技に関して言えば、形の違いを認めた上で、合わそうとする意志、努力が求められてくる。稽古においては、形の間違いではなくて、今ここでその形をすることの間違いが存在するのである。指導者の形に合わせることが求められる。人に合わし、人の形を認める謙虚で素直な心が第一歩である。(・・・・後文略・・・)。


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