稽古考9
■ 2002/04/30 (Tue) 合気道と剣について
合気道と剣。これはなかなか難しい命題だろうと思う。色々な人が各々の解釈で論じている。「合気道とはこうあるべきである」。と言ってしまう事の危険性を我が師範から指摘され、厳に慎むよう戒められている。しかし、「このような解釈もあっても良い」と一考するのは許されるだろう。
合気道関係の一部のホームページや、SNSに、「剣の理合が解らないと合気道は分からない」、或いは「合気道は剣である」。と書き込まれているのを目にする。
あまりにも極端な合気道の解釈なのではないだろうか。果たして合気道は剣なのか。開祖は「円転の理」を柱とした体術としての合気道を世に送り出し、その後、道主によって引き継がれて来たものだと認識している。確かによく引き合いに出されるのが剣であったりする。が、それは形の上で似た部分を説明する折りしばしば用いられるにすぎず、剣が本質だとは言わないのではないだろうか。
「合気道を修業する者は、剣を持てば合気剣法になり、杖を持てば合気杖術にならなければならない」。と開祖は言っています。が、しかしここで言われる合気剣、合気杖は一般に伝承されてきた剣(剣道、居合い、抜刀、剣術)とはその成り立ちからして異なったものであろう。合気剣、合気杖は、完成された体術としての合気道の延長線上におかれたものではないのだろうか。だとするなら、「剣の理合が解らないと合気道は分からない」「合気道は剣である」は本末転倒と言えるのではないか。
剣とひと口に言っても多種多様、剣道、居合い、抜刀、剣術各々その理合は様々。たとえその中に合気道の理合と似ているものがあったとしても、「だから合気道は剣の理合である」と表現するのは余りにも狭義な解釈だと思う。例えば、「起倒流、柳生流を理解していなければ、また、大東流合気柔術、神陰流柔術に通じていなければ合気道は解らない」などと言う合気道御仁はいないであろう。と、こう考えるのは私だけだろうか。