唯円さんって、何者? 歎異抄を読む 第十二条
怒髪天を突く唯円さん
「経釈」は仏さん、つまり、お釈迦さんの教えが書かれたお経、そして、釈は様々な高僧方がお経を解釈された書物のことです。
つまり、お経や高僧の書物を読まない、学ぼうとしない連中は浄土へ往生できない。
そんなことを吹聴する者がいる。
これは、「不足言」、読み下すと「いうに足らず」、それに「すこぶる」とありますから、「とんでもなくバカバカしいことだ」と唯円さんは断じています。
「本願を信じ、念仏称えて仏となる」、それ以上にどんな教えがいるってんだ!
こんなこと言ってるやつは、オレは華厳経を読破したぞ!とか、浄土三部経を千回読んだとか、単に、自分ががんばってることを認めてもらいたいだけの、承認欲求のかたまりで、実際、なんもわかっちゃいない。
「もつとも不便のことなり。」
ふびんなやつだ、そうまでおっしゃるのです。
ここまで、唯円さんが語気を荒くされるのは何故なのか?
唯円さん、自分自身を歎く
さて、第十一条が第一条に照応しているのと同じく、第十二条は第二条に照応しています。先ほどの引用文は、第二条には、親鸞聖人の言葉として次のように記載されています。
かつて、はるばる関東から京へのぼり、極楽往生の道が他にあるのではないかと親鸞聖人にたずねて、「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」とご同行と共に突き放された、唯円さんご自身の姿が、私には重なるように感じられるのです。
つまり、かつてご自身も、この異義のとおり、経釈を読み学ぶことに没頭されて、「やっぱり、お経読まない奴はわかっちゃいないよね」と吹聴されたことがあったのではないか。昔の自分自身を見せつけられているように感じ、いっそう感情がたかぶったのではないか。不憫な奴らだとおっしゃりながらも、その実、ご自身をもっとも不憫に感じていらっしゃったのではないでしょうか。
おそらく、唯円さんという人は、相当、学問のできた人だったというのは、歎異抄を読めばわかります。親鸞聖人のお書物は、教行信証をはじめ、すべて熟読、記憶されるくらいの能力はあった方ではないでしょうか。記憶力の高さは、師訓篇で証明されています。また、浄土三部経はじめ、今、浄土聖典としてまとめられているお聖教も、すべて漢文で読める人だったのでしょう。当時、漢文を読める人は、それほど多くはなかったはずです。
「唯円さん、あのお堂の真ん中の掛け軸、何て書いてあるんですか」
「なもあみだぶつ、と書いてるんですよ」
「ああ、そうなんですか。いつもおとなえしているお念仏ですか。はあ、唯円さん、漢字も読めるんですね」
そのようにご門徒の方に感心されて、満更でもなく感じていらっしゃったことがあったかもしれません。ただし、もしそれがあながち間違いではないとしたら、それを恥ずかしいと感じてもいらっしゃったと思います。それは、歎異抄のなかで、なぜ序だけをわざわざ漢文で書かれているのかという謎に関連してくるからです。
歎異抄 序の真意
第十二条にも「一文不通のともがら」と書かれていますが、「偏 為 散 同心行者之不審 也」、ひとえに同じ信心の行者が迷うことがないようにするためだ、というものを、文字が読めない人に向けて、なぜわざわざ漢文で書く必要があったのか。
ここに、私は唯円さんという人に共振せざるをえません。
なぜ漢文で書いたのか、漢文で書くことによって何を表現したかったのか。それは、ご自身に対する恥です。
「あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住するひと」とは、自分のことだと、そして、名声や金のために学問を積んだ自分を心底恥ずかしいと感じていたからこそ、あえて序を漢文で書かれたのでしょう。
たとえば、実は、唯円さんの周りに漢文を読める人は極々限られた人だった。漢文を書ける人はいなかった。だからこそ、ご同行には、誰が歎異抄を書いたのかは、序を読めばわかったのです。であれば、歎異抄に「唯円筆」と記名する必要はなかったのでしょう。
しかし、唯円さんにとって、自分が字を読めるのは、自分の才覚に得意になっているようで、自分を鼻持ちならないと感じていた。その自分の鼻持ちならなさはご同行にも知れていた。少なくとも唯円さん自身はそう捉えていた。だから、あえて漢文で唯円さんは序を書いた。それゆえに序は唯円さんご自身の署名であり、唯円さんという人間そのものとも言えるのです。
唯円さんって、何者?
唯円さんは、常陸、今の茨城県の人で、俗名平次郎、大変な荒くれ者でしたが、親鸞聖人と出会い、弟子となり、のちに唯円道場を開いたと紹介されています。
晩年、京に上り、覚如上人(親鸞聖人の曾孫)と教義上の問題を検討されたという記事もあり、また、唯善上人(親鸞聖人の孫)を密教・修験道から改宗させたとのこと。
覚如上人は本願寺の実質的な開祖であり、唯善上人の兄、覚恵上人と争ったという経緯があります。
唯円さんご自身が、その争いにどこまで関わったのかは分かりませんが、親鸞聖人の直弟子として、覚如上人はじめ、浄土真宗において一目置かれる存在であったのだろうとうかがえます。やはり、教義に通じ、指導力もあり、相当な影響力を持つ方だったのでしょう。
その唯円さんも、親鸞聖人と出会う前は、荒くれ者であったというのも、やや出来合いのストーリーを当てはめられている感はなくはないのですが、ある程度、当たらずとも遠からずという気はします。
手のつけられない荒くれ者も、親鸞聖人と出会い、他力の宗旨を一心に歩んで、誰からも一目置かれる仏弟子となったというストーリーは、親鸞聖人の神話のひとつに数えられそうな話です。歎異抄から唯円さん晩年のお姿として、覚如上人、唯善上人との経緯は、さもありなんってうなづけますが、荒くれ者というのは、具体的にイメージが描けません。
しかし、第十二条の異義に対する態度は、荒くれ者が回心して、というだけでは、どうにも合点がいきません。
平次郎から唯円へ
「荒くれ者」にこだわって検索しても、今のところ、出来合いのレッテル以上のことは期待できなさそうなので、ならば、直接「歎異抄」に聞いてみるしかありません。
手がかりはあります。それは、「一文不通」です。
「一文不通のともがらの念仏申すにあうて」(第十一条)とあり、第十二条では、「一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの」とある、「一文不通」という言葉遣いには、唯円さんの共感が込められています。文字も知らない人たちへの共感は、かつて荒くれ者とレッテルを背負わされた唯円さんご自身の姿が投影されているのです。
そして、文字も読めない、経釈の道理もわからないひとが、「となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ」と続きます。第十一条では、「誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて」と書かれていました。
この唯円さんの名号、南無阿弥陀仏へのこだわりは、一文不通のともがらのためにこその念仏という確信から書かれたものでしょう。
ただ、この念仏へのこだわりは、それほど単純ではなかった。この確信へ行きつくまでに紆余曲折があったはずです。
荒くれ者、一文不通の者が、親鸞聖人と出会って、即、仏弟子に生まれ変わったというのならそれは身贔屓過剰です。
そうそう簡単に人間、心が入れ替わるものではありません。煩悩さかんであるからこその真宗ではないでしょうか。
つまり、唯円さんは、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと教えを聞いても信じられなかった。親鸞聖人と出会っても、ありえねえと唾を吐いた。嫁の浮気を疑って殺そうとすると、嫁の体が名号を書いた紙切れに変わって、実は生きている嫁がひょっこり現れて、唯円さん驚いたという物語がありますが、南無阿弥陀仏と書かれた紙を切ったというのが実際のところで、こんな紙切れに書かれた文字を称えることで、この、オレが、救われるわけねえだろと、キレて切った。だが、その自分が切った紙を見て、嫁が言った一言が唯円さんの心に刺さった。それは、おそらく、当時は文字一つ読めない唯円さんに、そこに何が書かれているのか、自分の行為がどれだけ恐ろしい罪なのかを覚らせることを嫁が口走ったのではないか。たとえば、「なんて、罰当たりなことを!」と。
とにかく、嫁が放った一言は、唯円さんにとってショッキングな出来事であったことは間違いなく、仮にそれが罰当たりということばであったなら、そう言われた唯円さんの頭の中で、増殖していったことは想像するのは難しいことではない。そのような出来事をきっかけにして、平次郎は唯円となる道に入り、ただ嫁の放った言葉の意味を求めて、経釈を読み漁り、いつしか漢文の読み書きをこなすほどの学問を身につけたんであろうと想像するのです。
何が何でもハッピーエンド
学問をすればするほど、周りの者が自分を見る目も変わっていくのを感じながら、そこに違和感も感じていたのでしょう。それは、一文不通である平次郎と、おそらく名僧と呼ばれる唯円とのギャップを感じていたにちがいありません。
それは次の一文にある「われらがごとく下根の凡夫、一文不通のもの」という言葉が証明しています。
つかこうへいは、かつて、「ひけめの美学」という言葉を使って、自作の「蒲田行進曲」や「飛竜伝」などを語っていたことがありましたが、
唯円さんが、他宗がバカにするならこう言い返せと指南するこのセリフは、一見、自身を卑下して、相手を立てているように見えながら、実は、このセリフを向けられた者の心理を宙吊りにし、動けなくなる毒が孕まれていると思います。ただ、この毒は薬に転じて、
「われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意」と、共に浄土で会いましょうとの呼びかけなのです。
テメェら、救われねえ
唯円とは、ただ円ひとつという願いであるなら、その法名には、正に唯円さんが生涯追い求めたものを示しているはずです。そのただ円一つをぶち破られることは、とてもとても、唯円さんには許し難き所業であったのです。
弾圧に耐え、他宗からの圧力を受けながらも、こちら側から権力に立ち向かうため、その力を得んものと、そのために学問に励むなど、心得違いもはなはだしいと指摘されています。それどころか、「法敵も出できたり、謗法もおこる」と、五逆に値すると注意されます。
唯円さんいわく、学問とは、論争のためのものではなく、まして、自分の名声を高めたり、お金儲けの手段でもなく、何より、慈悲のためなのです。
学問とは、信心に迷うご同行を励まし、助けるためのもの。そう考える唯円さんにとって、もっとも許せないのは、逆に学問があることを鼻にかけ、ご同行を迷わせることです。そのような行為に対して、唯円さんは容赦しません。法の魔障なり、仏の怨敵なりと激しく指弾されます。
第十一条での異義者には、果遂の願で救われると言われたのですが、第十二条の異義者には、はっきりと、おまえら救われねえと激しく断言されます。「弥陀の本願にあらざること」とは、第十八願の五逆誹謗を除くと説かれるところであります。
他力の信心が欠けているのみならず、他のご同行を動揺させ迷わせるのは、唯円さんにとって大罪に等しく、そこに真宗の存亡がかかっているとの危機を感じていらっしゃったがための第十二条なのだと、このように了解致しました。
南無阿弥陀仏