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なぜ念仏者は無敵なのか?
念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆえなりと云々。
純化された教えの言葉
歎異抄を読むと、親鸞聖人という方は、人の虚をついて関心を引き寄せ、「そのゆえは」と明確な論拠を示すという語り口で、とてもロジカルにわかりやすく話をされる方という印象を持ちます。
さて、その印象は正しいのかというと、留保せざるをえないというところでしょうか。
なぜなら、歎異抄は親鸞聖人の語録と言われることもありますが、親鸞聖人の語られるまま書記されたものではないからです。
歎異抄に書かれていることは、すべて著作者の「耳の底に」蓄えられていた言葉だからです。おそらく、著作者は幾度も、それらの言葉を反芻してきたはずです。彼の脳内のメモリーから引き出され、都度、加工され、書き換えられてきた可能性は否めません。ただし、歎異抄が、教行信証や親鸞聖人のご消息をはじめ、真宗の他のお聖教とも連関し、協働して親鸞聖人の教えをより発展的に味わわせていただいていることを考えれば、著作者による記憶の書き換えは決して非難されるものではありません。むしろ、親鸞聖人の教えをエッセンスへと純化することであり、しかも、その純化の作業は、親鸞聖人の語録として受け取らせることに成功しているのです。通常、記憶の書き換えは、本人の都合で行われたり、気づかずに粗雑さが紛れ込んだりしてしまいます。過去の記憶は往々にして塗り替えられてしまいますが、容易にはその塗り替えは意識されません。ところが、歎異抄のケースでは、そうした自己都合や気づかずにやってしまう単純化ではなく、親鸞聖人の教えのエッセンスを抽出し、かつ、これも驚嘆するところですが、聖人の肉体性をも提示しているのです。歎異抄に書記された親鸞聖人の言葉は、肉声として表現されています。だからこそ、歎異抄は音読してこそ味わいが出てきます。これは称名念仏の本質とも関わってくることではないでしょうか。
仲間だからこそ端折れる
さて、第七条について。
歎異抄のそれぞれのくだりは、いつ、どこで親鸞聖人が話されたことなのか記載はありません。誰に向けての言葉なのかもほとんど想像できません。その例外は第二条くらいでしょうか。
第七条も、いつ、誰に、どこで話されたのかが不明確です。
また、これも歎異抄の第一条から第十条に共通していることだと思いますが、歎異抄が書かれた動機を考えれば、そこに書かれてある聖人の言葉は、著作者だけの耳の底にある言葉ではなく、他のお弟子さんやご門徒の方々にも親しい言葉であったはずです。
でなければ、歎異の根拠にはならないからです。いい加減なことをいえば、そんなことは聖人は仰せになっていないと反論を喰らうだけです。
それゆえに、第一条から第十条は、歎異の根拠として、親鸞聖人の教えを共通認識として確認するものであったはずです。
また、著作者自身が、何度も繰り返して、親鸞聖人はこう言ったと伝えてきた言葉であったでしょう。
親鸞聖人の教えを受けた念仏集団の共通認識だからこそ、本来であれば言うまでもないこと、お互いに了解しているはずのことだからこそ、いちいち、いつ、どこで、誰になどという情報は不要だったのでしょう。
しかし、そうした相互了解の基盤がない者にとっては歎異抄は非常に危険なことが書かれていると見られてしまう。
蓮如上人が、奥付きをわざわざ追記されたのもそれを危惧されたのではないでしょうか。
幾たびも弾圧を受けた蓮如上人にとって、歎異抄は貴重なお聖教だと認めるとしても、とても教団外部へ公開するのはリスクが高いと考えたにちがいありません。
歎異抄の原本が未だ発見されていないこと、また、著作者の記名がないことは法然教団以降の念仏禁止、弾圧の歴史に関わっているのではないか。そのため、親鸞聖人の系統を引く各教団として長く書庫の奥に潜めておくしかなかったのでしょう。
歎異抄の孕むリスク
ここまで記述したとおり、公にとって歎異抄は危険な書物でした。他にも弾圧する側にとって格好のネタになったであろう箇所はいくつもありますが、その中でも、最もまとまった形の言葉は第七条と見受けられます。
天神地祇も敬伏し、魔界外道も障礙することなし。
実際、興福寺が朝廷に提出した訴状に、念仏集団は神を敬わないと書かれているのですが、仏教界に留まらず、当時の一般人の神経をも逆撫でしたに違いありません。日本人にとって神とは祈りを捧げ、願を叶えていただくと共に、逆鱗に触れてしまえば祟りや災いをもたらすものです。それはまさに魔界の者とみなされるものだったのではないでしょうか。魔界外道も邪魔しないのは、念仏者たちが魔界の者だからだという誤解を招くことにもなりかねません。
罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆえなり
罪悪を犯してもそれに対する報いを受けない、これは因果応報への違反です。悪いことをすれば悪い結果が返ってくると考える。だが、念仏者にとっては罪悪の報いを受けないと読めてしまう。弾圧する側にとっては、念仏者は自分たちを神仏を恐れる必要がないと信じており、念仏を唱えながらとんでもないことをやりだしかねないとの眼を向けられても仕方ないのではないか。
当時は、朝廷が禁止と発してしまえば、検非違使などの役人だけでなく、いや、それよりもむしろ、僧侶はもちろん、一般人までもが武装して弾圧を行う時代でした。念仏反対者にとっては、シッポさえつかめば行動する理由になるので、ヤバそうな一文、一語でさえあれば暴力を正当化する材料になるのです。
念仏禁止、弾圧は、歎異抄を読む上の重要な文脈です。それも、歎異抄の中で示唆されています。聖人が「愚禿釈親鸞」と名乗られた背景がなぜ挿入されているのか。この点はあらためて掘り出してみたいと思います。
ここまで第七条を通して、歎異抄が持っていた政治的リスクについて考えてきました。そのリスクは教団と国家、他宗派、民衆との関係においてのリスクです。しかし、それは元々法然、親鸞と継承されてきた教えに内在化していたものであり、教団内部においては異義として顕在化します。その異義による混乱が著作者に歎異抄を書かせることになりました。
著作者の聡明さから書き残すことで外部からの弾圧を受けかねないことは当然見通していたはずです。そのリスクを犯しても、著作者には書き残さねばならない動機がありました。それは先の者として、後の者への配慮です。そこに、私は、著作者の責任感の強さを感じます。使命感です。
では、著作者は、第七条を通して、何をいったい伝えたかったのでしょうか。
念仏者は無敵である
念仏は阿弥陀如来からいただくものです。
確認しておきましょう。
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり
念仏を称えるのは、阿弥陀如来の誓願不思議によるものです。私自身が称えようというものではありません。他力です。アミダさんのパワーによるものだからこそ、「無礙の一道」を歩むのであり、阿弥陀如来と私との直接的な関係において無礙です。そこにおいて、摂取不捨の利益にあづからせていただくのです。
現世利益和讃には、この様相がいくつも詠われています。
一切の功徳にすぐれたる
南無阿弥陀仏をとなふれば
三世の重障みなながら
かならず転じて軽微なり
南無阿弥陀仏をとなふれば
梵王帝釈帰敬す
諸天善神ことごとく
よるひるつねにまもるなり
無礙光仏のひかりには
無数の阿弥陀ましまして
化仏おのおのことごとく
真実信心をまもるなり
これらの和讃で親鸞聖人が謳っていらっしゃるところを押さえれば、守護されるのは真実信心です。真実信心とは、アミダさんからの呼び声に浄土へ往生するのだと信じるこころのことです。それは金剛心ともいわれる、固い、固い、信心です。その信心はそのまま、アミダさんの信心だからこそ、「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障礙することなし」。「罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆえなり」、なのです。
そこには、私の計いは紛れ込まない。私の欲望など入り込む余地はありません。だからこそ、念仏者は無敵と言えます。
しかし、真実信心をいただくことは極めて難しい。易行難信。そのように親鸞聖人はおっしゃっています。それは、どうしてもアミダさんを疑ってしまう、欲望から離れられないからです。この点については、別の機会に記事を書きたいと思います。
補足
歎異抄第七条 音声配信 2024/11/17 20:00より