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念仏対エロティズム

念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには、非行非善なりと云々。

歎異抄 第八条

第八条は、ひとえに他力について述べた親鸞聖人の言葉であり、阿弥陀如来からいただいた信心から南無阿弥陀仏とおとなえするのであって、そこには私の意図や意識は介在しない。ひとえに他力にして、自力からはなれた念仏なのだから。
スタエフの配信では、自力の念仏、他力の念仏を「自力他力事」、隆寛律師のお聖教に頼ってしゃべってみた。
自力の念仏とは、身口意を慎むことを浄土往生への道として称える念仏で、この念仏には称えるひとの願いがこもっている。
ふつう、念仏を称えるといえば、こちらをイメージするのではないだろうか。
だが、隆寛律師は、この自力の念仏には罪があるという。それは、阿弥陀如来の本願をシカトしているという罪だ。だからとはいえ、念仏を称える以上、浄土へ往生できないのではない。浄土の辺境、親鸞聖人は擬城胎宮とも呼ぶところで、阿弥陀如来の本願をシカトした罪を償うことになるといわれる。五百年、その罪を償わなければならない。
では、他力の念仏とはどのように説かれているかというと、

「他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をいかがはなるべき。罪は日々にそへてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。かかるにつけては、ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身を照らしまもらせたまへば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしは昼もしは夜、一切のときところをきらはず、行者を護念して、目しばらくもすてたまはず、まさしくいのち尽き息たえんときには、よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり。」

—『浄土真宗聖典(註釈版第二版)』浄土真宗本願寺派総合研究所著

罪悪深重、煩悩熾盛と歎異抄にも書かれているそのままのわが身にて、ひとえに阿弥陀如来の本願を頼み、阿弥陀如来を仰いで、念仏を称え続ければ、「阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身を照らしまもらせたまへば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしは昼もしは夜、一切のときところをきらはず、行者を護念して、目しばらくもすてたまはず」とは、歎異抄第七条に書かれているとおり、この世において護ってくださるというのだから、これ以上有難いことはない。そして、この世との縁が切れたときには、極楽へ連れていってくださる。至れり尽せりのVIP待遇ではないか。

親鸞聖人も自力の念仏、他力の念仏について説かれている。それは笠間の念仏者に疑ひ問われたる事と題されたご消息に記されている。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身口意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。」

—『浄土真宗聖典(註釈版第二版)』浄土真宗本願寺派総合研究所著

そして、自力の念仏の有り様は、隆寛律師の説かれるところと等しい。

自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢辺地の往生、胎生疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。

—『浄土真宗聖典(註釈版第二版)』浄土真宗本願寺派総合研究所著

他力の念仏についても、次のように仰せになる。

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。

このあとに法然聖人の言葉とされるくだりが続くが、それは第十条と関連するところなので、ここでは略する。

しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。

隆寛律師の説と重なるところを引用したが、ご消息で親鸞聖人が述べていらっしゃるところはそこにとどまらない。ただ、それは別の機会としておきたい。今は、自力、他力の違いを確かめておき、第八条へ立ち戻る。
歎異抄のなかでも、すでに、自力、他力は対照的に説かれていた。
第三条では、「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば」とあり、第五条では「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば」と説かれている。
そして、この第八条では、「ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆえに」とある。
第三条では悪人正機、つまり、弥陀の本願のめあてと合わせて、第五条では救い、救済に関連して説かれている。一方、第八条は、念仏している行者の心理状態を言い表している。

自力をはなれる、とは、いったいどういうことなのか。はなれる、離れる、放れる。それは、つまり、まったく「わがはからい」を放棄するということだろう。あるいは、「わがはからい」が働かない、機能しない状態を指し示す。非行非善とは、正に、それである。私の心理が私の心理として機能しなくなった状態、茫然自失、あるいは忘我状態ではないのか。
とすれば、ここでフランスの作家、ジョルジュ・バタイユによるエロティズムの定義を持ち出したからといって罰は当たらないはずだ。その定義とは、エロティズムとは、生の死に至るまでの称賛である、というものである。なんと、念仏にぴったりと当てはまりそうな表現ではないか。
バタイユは、また、神秘の人でもあるが、無神学大全には、鈴木大拙の禅の言葉を引用していたりする。その大拙師は、「神秘主義」という著書でエックハルトと真宗を合わせて論じている。
こう書きながら、自分ながら、自分の強引さに呆れてたりするのだが、本来、もっと丁寧に論じたいところ。とはいえ、宗教とエロスとは本質的に切り離せないため、念仏対エロティズムは、あながち間違ってはいない構図だろう。
つまり、ひとへに他力とは、ある種の陶酔、恍惚、忘我状態を指しているのではないだろうか。
たとえば、次の和讃。

名号不思議の海水は
逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほに一味なり

衆悪の万川が行き着く功徳のうしほとは、弥陀の大海。正信偈で次のように謳われている。

凡聖逆謗斉回入
如衆水入海一味

海といえば、ランボーの「永遠」には太陽と溶けあう海が謳われている。それをバタイユはエロティズムの表現と指摘している。だが、ランボーはこの詩を詠んだ時、海をみたことがなかったらしい。ランボーが謳ったのは、想像の海だが、親鸞聖人が謳った海は、実際にご覧になった海だ。バタイユは生の死に至るまでの称賛といい、また、エロティズムを小さな死ともいったが、親鸞聖人の往生は、生死からの出離であり、大慈大悲の海である。このちがいは、カトリックの聖地と八百万の神々の地によるのだろう。それだけではないと思われるが、念仏対エロティズムの構図によって、正に次のことがわかった。

念仏はエロティズムを超越する。
何ゆえにかといえば、浄土は死の先にあるものではない。浄土は生死を超えている。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

以下で、第八条をお話しています。

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