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慎吾ちゃんのダンス育成の地 広島
「『涙のテイク ア チャンス』にはガキのころからの思い出、いっぱい
つまってる」 風見慎吾 shueisha 1985
前回の記事で、少年隊はじめジャニーズがいかにダンスレッスン環境に恵まれていたかを書きました。少年隊は中学時代からレッスンを受けていたし、トシちゃんも高校時代からレッスンに通っていたと。ニューヨークで一流のレッスンを受けるためにしばしば渡米したり。
その一方で非ジャニのアイドル、このシリーズでは慎吾ちゃん、はいつどうやってダンスを習得したのだろう。ブレイクダンスだけでなくダンスそのものを。デビュー直後のアイドル時代に「踊りはぜんぶ自己流だから、いつかキチンと先生についてレッスンを受けたい」と言っていたのだ。歌詞表現のための振付師の先生はいたけど(ピンクレディー振付の土居甫氏)。その後の例のブレイクダンスも「独学」だから、結局正規のダンスレッスンは受けてないまま。それで、全国のお茶の間3千万人の前で堂々と披露できるあのレベルまで達せるものなの? タレント活動と学生生活で忙しいのに。
1984年末の『涙のtake a chance』でブレイクダンスを披露し世間を驚かせたころの慎吾ちゃんのインタビュー談話。
「踊りのうまい田原俊彦さんとか少年隊とかが、ラジオのDJで踊りの話をしてると、風見慎吾って名前がチラッと出るんですね。まあ、田原さんや少年隊に限らず、他の人でも踊りの話題になると、最近は風見慎吾を口にするらしいんです。それだけでも、自分にとってはすごい変化だなあと思って。今までは、踊りで自分の名前が出るわけがなかったしね。」
風見慎吾 BP New Year 1985
踊りの斬新さと激しさとそれまでのキャラとの意外性で視聴者の度肝を抜いた慎吾ちゃんですが、ブレイクダンス自体はテレビで踊る半年前に夏のコンサートツアーの目玉としてバックダンサーたちと既に踊っていました。1983年末にはヒップホップについて言及していて「ブレイクダンスが得意」だと言っていたから、1984年初頭にはかなり踊っていたと思います。新春コンサートではブレイクダンスを披露。夏には例のバックダンサーたちとヒップホップの大々的なツアーを開催。
- この夏シンゴのコンサートをみた人はアッハーン、アレだ!なんて思うでしょう。とにかくシンゴちゃんはこのところブレイクしまくっちゃって、体がコッキンコッキンとウソみたいに、よく動いたりとまったり。
magazine h 1984
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沖縄で一足早くブレイクダンス披露 shueisha 1984
しかしながら、1984年6月リリースの『そこの彼女』の振りではブレイクダンスを見せていません。というのも、この曲で歌番組に出たのは一度だけ。このころはもうかなり踊れていたはずなのですが、この曲で取り入れたのはMJの振り。コンサートステージでは踊りまくっている一方、この時点ではテレビでダンスの上手さを強調する気はなく、「笑い」の部分で他のアイドルとの差別化を図っていました。
「観てるお客さんが “アッ、慎吾のヤツ、マイケルを意識してるけど、いまいち決まんないな” みたいに思って “クスッ” と笑ってくれるんならそれでいいんです。それに踊りを見せるための歌じゃないし。」
風見慎吾 新曲『そこの彼女』インタビュー Oricon 1984
前年1983年に遡ってみると、秋の『泣いちっちマイハート』ではひたすらカワイイ振付け。さらに遡って同年初夏のデビュー曲、かの有名な『僕笑っちゃいます』ではサビでの素朴なボックスステップが印象的。なので、みんな慎吾ちゃんのことをただただ可愛い男の子だと思っていました。
「風見慎吾さんという存在。欽ちゃんファミリーなんですけど、油断してたんですよ。我々は風見慎吾さんのこと、甘く見積もっていました。すごい優しい、ただの可愛らしいアイドルだと思ってたんですけど…」
マキタスポーツ「ザ・カセットテープ・ミュージック」 BS12 2020/4/12
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ただただ可愛い男の子 NEW YEAR マイハート 1984
だけど今改めて見たら、デビュー当初から身のこなしの軽やかさがよく表れていて、当時も見る人が見たらかなり踊れる人だってことが分かっていたでしょうね。劇男一世風靡と共演した初コンサートではガンガン踊っていたのかも。
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1983年夏 デビュー公演
となると、ダンスはデビュー前の零心会(一世風靡の前身)時代に体得??でも、そこでは面倒くさい先輩メンバーが女性振付師の言うことを聞かずに暴れてばかりで、踊りの基礎を習う余裕は無かったはず。
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劇男零心会の稽古 shogakkan 1983
さらに遡ってホコ天のロックンローラー時代? 原宿のツイスト大会で優勝したこともあったとか。ツイストは、さらに遡り、進学上京前の高校生のときに原宿の真似して街に繰り出し路上で踊った、とのこと。
「ワルフザケで広島の街でローラーごっこやってみたりしたこともありました。しかし、3人ぐらいでやっても迫力無いですね。見物人がゾロゾロ出てきて、恥ずかしくて2,3回でやめちゃいました。ああいうもんは、農協の旅行といっしょで、団体じゃないといけません。」
風見慎吾 shueisha 1984
普段は八丁堀のディスコで踊っていたそう。
「高校の卒業式。トラボルタの映画『グリース』に衝撃を受けたボクは悪友5人とダンスパーティーを企画したぜ。なのに誰も来なかったぜ、うぇーん。その後、バンドのライブステージが始まるととたんに人が集まってきて大フィーバー。ボクらはたえきれなくなって思わずステージにかけあがり、もうヤケクソで踊りまわったぜ。ナイショでディスコとかにも行ってたし。そしたらまあ、これがエラいウケた! やんややんやの喝采、場内割れんばかりのアンコール。すっかり気分もよくなって、 ‘ああ、これで卒業だー’ なんてすがすがしく帰ろうとしたら、先生が言ったぜ。“こら、おめー、ディスコに行ってただろ” “……”」 風見慎吾 shueisha 1985
高校時代は勉強もせず部活もせず、放課後はエリート校ボタン無し制服を脱ぎ捨て街に繰り出し、お好み焼きを食べ映画観たあとディスコへ。だから成績は坂道ころころ状態。
ちなみに、あの見事なアクロバットからして「元体操部」と思われてしまいがちだけど、中高では部活をやってなかったそうだから体操どころかスポーツさえ本格的にはやってない。それであのバク宙だから、ホント驚異的。小学生のころ校庭の砂場で体得したそう。
情熱ほとばしる思春期、そして幼少時代にわんぱく三昧で過ごしてきた彼のそれまでの人生こそが、あの極上ダンスの源泉ということになるのかも。
湧きあがる 溢れ出る 迫りくる はしゃぎまわる 弾け飛ぶ!
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大ヒット後の全国ツアー shueisha 1985
後にブレイクダンスブームを巻き起こす慎吾ちゃんのダンスは、70年代の広島で育まれたということで締めくくりたいと思います。母なる大地、広島。
「小学校3年の夏の日のことだった。ボクは広島市己斐の町内会の盆踊り大会に出場した。目的は景品の仮面ライダースナックのカード。若い男の子はボクひとり。ボクは思わず “仮面ライダー盆踊り” という踊りをあみだして過激にパフォーマンスしてしまったぜ。突然のでんぐり返し。2,3歩歩いてこんどは秘儀 “バックでんぐり返し足開き”。そして嵐のよーな拍手と口笛がわき起こり、ボクはついに念願のお菓子をぜんぶもらって帰った。いまにして思えば、あれが踊りの才能を認められた最初の事件だったのさ。」 風見慎吾 shueisha 1985
☆彡
「ダンスのショーはたった一瞬で人々の心を掴むために、10年も20年もかけています。そういう意味で、“瞬発”であると同時に “歴史” ともいえるのではないでしょうか。」 TAKAHIRO/上野隆博 (ダンサー・振付家)
インタビュー EDOX LOVERS Official Site 201-年