
トシちゃんは王者 慎吾ちゃんは革命児
以前、「ダンスの横綱」という記事で、日本のダンスエンターテイメントの体系を下記のように示しました。
田原 振り付けを上手く素敵に踊っていた (歌>踊り)
↓
風見 ダンスを激しく踊る (歌<踊り) → その後歌手活動を終了
[ダンスエンタメ革命]
↓
田原 ダンスを歌とともに上手く素敵に踊りだす (歌✕踊り)
[ダンスエンタメ頂点]
こう書くと、トシちゃんファンから「最初はダンスじゃなくて振り付けだった、なんて失礼!」とか言われそう。言葉足らずでスミマセン。もちろんしっかりダンスなのですが、要は「踊りで歌の世界を演出」していたということ。これはこれで表現者として高度なパフォーマンス。「振り付け」はダンスの下位概念ではありません。作詞家も作曲家も踊れるトシちゃんをイメージして曲を作ったと思いますが、この時代、あくまで歌が主役でした。
そんな中突然、慎吾ちゃんが不思議かつ体内から弾き出るような激しい踊りを見せたわけです。慎吾ちゃんは元々ダンスで勝負するつもりはありませんでした。欽ちゃん番組絡みの指令でコミカルな曲を歌っていただけでした。
「自分が目指してる方向は ‘笑い’ だし、自分のいちばんの持ち味もその部分。ボクの他にアイドルはいっぱいいるワケだけど、ボクがみんなに負けないのはそこしかないから、やっぱりいちばん強調しなくちゃいけない。」
「 “踊りがいまいち決まってないな” って笑ってくれるんならそれでいい。それに踊りを見せるための歌じゃないし。」
風見慎吾 インタビュー 新曲『そこの彼女』 Oricon 1984
ところが、この三曲目『そこの彼女』があまりパッとせず、慎吾ちゃん曰く「キレイにコケた」。そこできっとこう思ったのでしょう。「番組スタッフに言われるがままカワイイ曲を歌っていたら、このまま一発屋で終わる。」

カワイイ革命児 shueisha 1984
それで、次のリリース曲に、コンサートツアーで踊り込んでいたブレイクダンスを導入することを願い出、踊るための曲を制作したわけです。新しい踊りを人々に提示するだけでなく、踊りは歌を演出するためのものとしていた歌謡界に「踊るために歌う」という概念をもたらし、革命を起こしました。
そんな慎吾ちゃんの登場がジャニーズを刺激しました。
「踊りのうまい田原俊彦さんとか少年隊とかが、ラジオのDJで踊りの話をしてると、風見慎吾って名前がチラッと出るんですね。まあ、田原さんや少年隊に限らず、他の人でも踊りの話題になると、最近は風見慎吾を口にするらしいんです。それだけでも、自分にとってはすごい変化だなあと思って。今までは、踊りで自分の名前が出るわけがなかったしね。」
風見慎吾 BP New Year 1985

それまで「歌って踊る」はジャニーズの独壇場。外敵無し状態。同事務所内で切磋琢磨しお互いを高め合っていたでしょうが、しょせん身内。しのぎは削ってなかったわけです。そんなところに慎吾ちゃんが大ブームを起こしたからもう大変。絶対に「お笑い」に負けるわけにはいかないと。ジャニーズは踊りで社会現象を起こしたことがなかったのです。
「夜のヒットスタジオに、派手なパフォーマンスを得意とする一世風靡セピアや風見しんごくんのブレークダンスが登場する。僕らは互いにライバル意識を燃やした」「 “ちくしょう、踊りなら絶対に負けないぞ” 」「三組が出演するときは、楽屋ではパチパチと火花が飛んだものである」
東山紀之 『カワサキ・キッド』 朝日新聞出版 2010年
「一世風靡の皆さんとか風見慎吾さんとかっていうのは、やっぱり同じ番組に出たときはもうバチバチして一言も口を利かなかったですね」「挨拶すらしない。もう全然、口も利かなかったですね」「和気あいあいなんてやらない」「もうバチバチ」「ライバル心はものすごくありました」
東山紀之 「おしゃれイズム」日本テレビ 2013年10月27日

ヒガシが語る上記の夜ヒットには、トシちゃんも出演していました。
「夜のヒットスタジオで田原俊彦さん、少年隊、一世風靡セピアと一緒になったとき、それぞれが躍り終わった直後、ジャニーズの関係者、セピアのレコード会社の人たち、僕のスタッフが同時に“ウチが勝った!”って叫んで」
風見慎吾 BP 1985

慎吾ちゃんの踊り手としての存在が、ジャニーズを触発したのです。
しかしながら、慎吾ちゃんの踊りは少年ゆえの玉砕ダンス。さらに、彼は「歌手として」継続的に長くやっていくつもりはなく、当時それはつまり、テレビやステージで踊る機会はなくなるということでした。
一方、トシちゃんにとっては歌って踊ることが生きる道。歌か踊りか、ではなく「歌も踊りも」。その最適融合点を目指し、『抱きしめてTONIGHT』でその世界を完成させ、頂点を極めました。1988年の年間ベストテンで一位となり、ダンスエンターテイメントのひとつの結論が出たと言えます。

“僕がナンバーワン” magazine h 1984
革命勃発まではダンスの王子様だったのが、後の新しい世界ではキングに。しかも、バックに欽ちゃんファミリーの二人を従えて踊るという、究極。
ところで、慎吾ちゃんの『涙のtake a chance』1984 は、大流行したわりには売り上げでトップになっていません。どうやら、レコードよりも、このころ普及し始めた「ビデオデッキ」の販売促進に貢献したのではないかと思われます。彼がリリースしたのは「観る曲」。儲けたのは電器屋さん。
☆彡
現在のエンターテイメントではもう、がっぷり四つに組む勝負はなくなり、バスケやバレーのような団体競技になりました。東西の横綱は、いません。今はほとんどが野球。投手陣と野手陣に分かれるように、歌と踊りが分業。
それなら野球までやっていた慎吾ちゃんの動画を貼っておきます。
令和に「ダンスエンターテイメントの大谷翔平」は出て来るでしょうか。ルックスも大事よ。