共通一次とブレイクダンス
⇒前回の「ブレイクダンスダイナマイト 点火!」のつづき…
慎吾ちゃんとブレイクダンスとの出会いは、映画『フラッシュダンス』1983の一場面。ダンス習得にあたっては当時教えてくれる人がいないため独学、ニューヨークから入手したビデオを繰り返し見て研究し会得したとのこと。
ブレクダンスを自身のコンサートのメインテーマとし、ステージにハービー・ハンコック『Rockit』1983 を演出に取り入れたいと考えた慎吾ちゃん。自らディスコへバックダンサーを探しに行きました。
バックダンサー ウェイブ magazine h 1984
1984年夏の全国ツアーでウェイブと一緒にブレイクダンスを披露。ツアーが終わると同時に、ウェイブとの活動はいったん終了しました。その後、秋になって新曲を出す話が来たとき、番組側が用意したのは穏やかなバラード。慎吾ちゃんはそれに反旗を翻し、大将こと萩本欽一にブレイクダンス導入を直訴したのです。
ウェイブを再び召集して一緒に大将の前で踊って見せ、その路線で行くことを認めさせたとのこと。急きょ新たな曲を作ることになりました。それが、『涙のtake a chance』です。
作曲した福島邦子さんが、昨年のインタビューでこのように語っています。
つまり、慎吾ちゃんは曲のプロデュースに自ら働きかけていたということ。その展開力はアイドルの領分を超越してますね。
(* 追記:上記英文、正規の日本語原文がありました。↓ )
作詞の大御所、荒木とよひさ先生にも慎吾ちゃんが自らコンセプトを伝え、歌詞に注文をつけました。
こんなふうに独自に展開できたのは、やっぱり賢かったからだと思う。時代のトレンドにアンテナ張って先端の文化を取り入れようとし、自力で切り拓けたのは頭の良さもあるから。普通のアイドルは与えられっぱなしだけど、慎吾ちゃんは意識もセンスも高く教養もあり、秀才にありがちな海外カルチャーインテリで、プロデュースの力量がありました。ロックマニアなので、曲作りの際もサウンドサンプルを提供したり。
物理が得意な理系だからブレイクダンス技の会得にも力学的な視点というサイエンスとしてのアプローチもできただろうし。アイドルにはめずらしく超進学校卒。過酷な五教科七科目制の初期共通一次世代。「共通一次試験受けたアイドル」って他にいないでしょ、絶対!「共通一次とブレイクダンス」って組み合わせ、どうよ。「センター」試験じゃなく「共通一次」ってところが80年代を示すポイント。
(なお二次は、既に都内の私立にいくつか受かってたので、試験の途中でやめて広島に帰ったんだとか。ブッチされたのは郊外にある我が母校…)
「 やりたいことがあるんです。やらせてください!」
慎吾ちゃんが賢くて能動的だったから勇気ある一歩を踏み出すことができ、ブレイクダンスの大ブームを起こすことができたのです。
また長くなったので、次の「ブレイクダンス界の野茂か伊藤か」につづく⇒