不遇と独学 日本のダンスシーンの源
慎吾ちゃんのブレイクダンスは自己開発。疲れて帰ってきた自分の部屋で、たった独りビデオを見ながら踊りの練習をしていました。
元々テレビではダンスで売り出される方針はなく、コンサートステージ用に自己流で踊っていただけ。バックダンサーも自らディスコに探しに行きスカウト。後の新曲でのダンス路線も自ら願い出ました。
バックダンサーとの練習も、専用スタジオがないから場所が取れないときは「自分がおごるから」とダンサーの分も払ってディスコに連れて行ったり、営業時間が終わった後のフロアを貸してもらったり。
ブレイクダンスをテーマとした84年夏と85年のコンサートツアーの演出も、構成作家や振付の先生がストリート系ダンスを知らないため、慎吾ちゃん自身が全てを仕切らなければなりませんでした。
彼は少年のころから常にアンテナを立て、最先端を走ろうとしていました。
ファッションでも田舎モンなりに最先端を行こうと。広島でデビッド・シルビアンの細身の黒スーツを真似したりパンクバンドのクラッシュに憧れて髪の毛ツンツンにしたり。進学するなら絶対に東京と譲らず、上京してからは原宿に通い、芸能界に入っても常時新しいカルチャーの動向をウォッチし追随していました。
もともと脅威の行動力の持ち主。
小学校5年生の時、初めての海外渡航として独りでアメリカへ。ロサンゼルスの親戚を訪ねようと思い立ち、貯めたお小遣い五千円が入った通帳を片手に日本交通公社へ。そこで親と一緒に来るように言われたんだとか。『涙のtake a chance』リリース時に「米国では子どもたちがラジカセかけてリズムとってて、日本でもそうなればいいと思う」と語ったのは、子どもの時に見たアメリカの風景からそう感じたのかもしれません。
将来はパイロットになりたいと思い、どうすればなれるか親に相談。学業優秀が条件と知ると自ら塾通いを始めて中学受験し、広島一の超進学校へ。実際に行動に移すところが夢を見ているだけの子供との違い。ただ、身長と英語力の問題でこれは断念。その後は全く勉強せず夜な夜な遊びまわります。
迫り来る大学受験。共通一次の理科では化学を捨て生物を選択し独学で勉強。どうやら、医学部志望ではなく工学部志望だったため化学を履修させられていたのを、「化学キライ、生物やりたい、動物好きだもん」という感覚で習ってない科目を自分で勉強したのだと思われます。
興味があることは教えられなくても自分でとことん追及する精神と行動力。ブレイクダンスの会得も「ビデオを擦り切れるほど見た」と。
切り拓く者はいつも無から手探りで進む。教えられずに事を成す。そこから現在のダンスシーンへと発展しました。
ボクははじめて大将にさからった。
“ やりたいことがあるんです。やらせてください!”