先日のある新聞記事の見出し文です。文頭は「踊る阿呆に見る阿呆…」。
読者へのアンケートで作られる記事で、回答者は60代以上の人がほとんど。ちなみに回答は「はい36%、いいえ64%」。世代的にも妥当な割合ですね。
今まで何度も書いてきたように、昭和の日常にダンスという概念はありませんでした。
以前も紹介した、九州の片隅に住んでいた当時中学生、現在51歳のとある男性の言。
「いいえ」の理由の筆頭は「上手くないから」。でも、私が思うに、実態として最もリアルなのはきっと「恥ずかしいから」。
女の子の場合、習い事としてバレエやジャスダンス、体育祭などでのチアリーディングの機会がありました。でもそれは、「スタイルがいい子」じゃないと踏み込めない特別な世界。
踊るということは全身を見られること。表現のために身体を使うこと、またそれを他者に見られることは、不格好な私にとって抵抗があることでした。そして当時、多くの人にとっても。
一方の「踊りたくなる」派の代表格は、かつてディスコで “鳴らした” 人々。ジョン・トラボルタのように踊る70年代のディスコブーム。でも、それは都市部の若者、いわゆる「街の子」にだけ用意された空間、限られた世界。
当時のたいていの男の子の日常は、探検ごっこしたりチャンバラごっこしたり釣りしたり、野球したりプラモデル作ったりのんびりテレビ観たり。それが、彼らの生活空間での行動でした。
「音楽を聞くと自然に体でリズムをとる、そこら辺で自由に踊る、日本の子供にはそういうのがぜんぜんない」
それは恥ずかしいから。本当は皆、体を動かすのは好き、リズムに乗るのは楽しい。だけど…
「 よほど自信がない限り 絶対に踊れない 」
エンターテイメントの殿堂、ニューヨークのアポロシアターの舞台に一人で立たったダンサーのTAKAHIROさんでさえ、そんな子供のひとりでした。
記事の筆者はこう記しています。
振り付けが ‘課され’ ‘合わせる’ ことが求められる
そんな風潮の80年代半ば、テレビを通じてひとつの革命が起こります。
それまでは「カッコ良く見せるため」「自分に自信がある人がやること」、それがダンスでした。そんな中、踊りの本質「やってみたい、楽しい! 」を出発点にした現象が生まれました。
沸きあがってくるものを自分なりに
☆彡
最高にハッピーなんだけどね!
踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損々