見出し画像

目の前にいる人をちゃんと見て感じる

両親に、結婚したい人がいてその人は台湾人だ、と伝えた時、母親から「お父さんは「台湾か…」と一言つぶやいただけですが、大丈夫です。台湾人で良かったかも?」と返信が来た。私は、「うん、私もそう思う。」と返信をした。

夫と一緒に家を借りるために寄った不動産屋で、「この辺の地域のオーナーは外国人ってだけでNGなところが多いんでね」とあしらわれた。ついでに「強い香辛料とかって料理で使います?」と聞かれた。「台湾料理では使いません。」と答えた。

苗字を変えた私は、市役所で「在留カードお持ちですか?」と聞かれた。私は「あはは、夫は外国人ですが、私は日本人ですよ。」と答えた。

台湾人の同僚が訪問先に遅れてきた。私は「すみません。彼、台湾人なので少しゆっくりの時間設定なんです。沖縄時間みたいな。先に始めましょう。」と先方に笑って言い訳をした。

私は外国人の夫と結婚してから初めて、日本人から外国人に向けられる視線を体験すると同時に、それをする日本人に対して、いえいえ私はあなたの側ですよ、という態度をとってしまったり、外国人に対するステレオタイプを自虐として使っている自分に気がついた。結局は私も同じことをしていたのだ。

読んだばかりの上橋菜穂子さんのエッセイ『明日は、いずこの空の下』で、彼女が引用していた作家サトクリフの言葉が痛かった。「ふたつの異なる世界を隔てるはかりしれない距離があるのだ。しかし、ひとりひとりの人間についていうなら、このへだたりはせばめることができ、そのへだたりを越え互いに触れ合うことができるようになる」と言うものだ。

これからは、夫の友人と会う時、その人が台湾人なのか、香港人なのか、中国人なのかを聞くのをやめようと思う。同じ言葉を発したとしても、きっと勝手に私が解釈してしまって、その人の言葉の意図をはき違えるかもしれない。

私が接するその人は、「〇〇人」が表象するイメージではなく、個別のひとりの人間なのだから。今、この瞬間に目の前にいる人の行動や言動を感じたい。そうできる人間でありたいな、と思う。

#未来のためにできること

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?