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青年が知覧で見たある特攻隊員

ライフコードというメソッドの中には「過去世」「輪廻転生」という考えが基本で出てきます。

僕の中ではそういう仕組みはすでに当たり前となっております。それはいくつもの時代を魂って経験していきているんだ、という書籍だけではない自らの経験もいくつもしたからなのです。

その僕が経験した「過去世」にまつわる一つの不思議な体験を今回はお話します。

以前僕の友人に竹内という大学を卒業したばかりの青年がおりました。精悍で爽やかだったので、女性にもモテていました。しかし、彼は若いくせにとても礼儀正しい男でした。忠義という言葉が似合いそうな、侍のようなイメージを僕は持っていました。

夏の頃、仲が良いグループが九州に旅行しようということになり、僕も誘われたので、行くことにしました。

僕は目的地が九州とだけ聞いて、その旅行に参加しました。

旅行は5、6人のみんな僕よりも若い男女だったと思います。(遠い記憶なので定かではありませんが)

高千穂峡から、阿蘇などの観光地を巡りました。そして鹿児島の方へ下りました。

「今度は何処へいくんだ?」

と聞けば、知覧だということでした。

知覧といえば昔第二次世界大戦の末期に、日本が特攻と呼んだ爆弾を搭載した零戦が飛び立つ飛行場があった処です。

知覧特攻平和会館

知覧へ行きたいと言い出したのはその竹内でした。

理由を聞いたけど、なぜか行きたいんです、と本人も明確な理由がわからない様子でした。

知覧特攻平和会館は鹿児島中央駅から車で約1時間の平野にあります。自然が美しい中を、運転が好きな竹内がレンタカーを走らせておりました。

自然な車窓を走っている中で竹内がフト独り言のように呟きました。

「なんかオレ、この道知ってる・・・」

友達たちは、田舎の風景など何処も同じようなので、お前の田舎もこんな感じだったからだろ、とか言って笑い合いました。

知覧特攻平和会館の中には当時の戦闘機が展示されていたり、当時の特攻隊員の遺品などもたくさんありました。タッチパネル式の解説や音声ガイドシステムの案内で、当時のことを色々と見て廻りました。

館内を進むと特攻隊員の遺影が居並ぶブースがありました。

そこでじっと佇む竹内に僕は気づきました。

竹内は一つの遺影をひたすら見詰めていました。

なんかおかしさを感じたので、僕が竹内に近寄り「どうした?」と後ろから声を掛けました。

僕は驚きました。

竹内が止めどなく涙を流しているのです。

「どうしたんだ!」

と驚いて竹内に声を掛けましたが、ボロボロ涙を流すだけで言葉にならないようでした。

僕はひょっとして遺影の中に、彼が自分の祖父でも見つけたのかと思いました。

が、次の竹内の言葉に僕はさらに驚きました。

「こ、これ、オレです・・・」

竹内は一枚の遺影を真っすぐに指さして、さらに泣いていました。

僕は、何がなんだかわからずただ竹内を見るしかありませんでした。でも今は何も聞かない方がよいような感じがしたので、ただ付き添っていました。

理由もわからず、異様な雰囲気を感じながら他のみんなと一緒に会館を出ました。運転を替わろうという僕の言葉に、

「どうしても行きたい処があるんです」

と、また竹内が不思議なことを言い出しました。

「何処へ行くんだ?」

と聞けば、これがまた不思議な彼の回答でした。

「わからないんです」

一緒にいるみんなは、訝しそうに顔を見合わせるだけでした。

竹内の運転で車を走らせました。

竹内はなんか勝手を知ってるように車を走らせます。時折「ここは確か・・・」みたいに、何かを確かめるような独り言を呟いています。

もちろん竹内も、僕たちと同様にこの知覧を訪れるのははじめだと旅行前には言っていました。それは嘘だったのかな、とも思いましたが彼が嘘を付く理由はありません。

車は県道23号線の旅館などが並ぶ往復二車線の道をゆっくり走りました。竹内はなんの地図も見ず、周囲の風景だけを見ながら、何かを思い出すようにハンドルを切っていきました。

かなり徐行しながら走り、県道の側道に車が止まりました。

僕たちは「ココは何処?」みたいに顔を見合わせました。

竹内は車を降りて、ある古い木造作りの旅館を見上げていました。

「ここか?」

と竹内に聞いてみました。

「たぶん・・・」

と、彼自身も半信半疑の様子でした。

その古びた旅館には「富屋旅館」と書かれていました。

僕たちはここ知覧には単に知覧特攻平和会館に行くことだけを目的に来たし、それに纏わる深い前知識は何もなく来たのでした。

ですので、この時はここが何なのかさっぱりわかりませんでした。

後に調べてみると、富屋食堂は、特攻の母として慕われた「鳥浜トメ」という人がしていた食堂で、出撃する特攻隊員をあたたかく迎え、そしてけっして帰って来ないとわかっている隊員を常に送り出してあげていた人でもあったようです。

富屋旅館

若い竹内はとにかく乗り物が好きで、仕事もトラックの運転手をしていました。子供の頃は電車の運転手になりたかったらしいのです。

でもけっして乗れない乗り物があると言っていました。

それは「飛行機」でした。

飛行機だけは、乗るのも怖くて乗ったことがない、というのを僕は一度竹内から聞いた記憶がありました。

竹内は本当に細面の眼の薄い、精悍な顔をしており、見れば見る程あの特攻隊の写真の中に混じっていてもおかしくないほどでした。

そんな体験も僕が「ライフコード」を体系化した、素材になっています。

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