【娘爆誕記録】子宮頸管無力症で入院し、23w5dで596gのリトルベビーを産んだ話
このnoteの目的
目的は二つ。
興味のあるところだけ読んでもらえたらいいし、目次を読むだけでも大体のことはわかるようにしました。
私の知人には、出産レポートだけでも目を通してもらえたら嬉しいです。出産レポートだけならわりとすぐ読み切れます。
1月末に子宮頸管無力症で切迫流産と診断され緊急入院をし、絶対安静での入院生活を経て、2月13日、23週5日で596gの娘が生まれました!
妊娠の報告をしていた人もいるので、出産報告になればと思い、子どもが生まれたらnoteを書こうということは決めていた。
でもいわゆる「安産」かというとちょっと事情が変わってしまったので、今回はこのとんでもない長文のnoteを書くこととした。
想定外の入院、出産を経験する中で、私はとにかく「情報がほしい」と思っていたので、似た状況にいる方にとって少しでも参考になればと思ったのだ。
そしてたくさんの体験記を読む中で、どんなに長くても一つの記事にまとまっている方が読みやすかったので、こんな超大作になってしまった。
このnoteを読んで、ホッとするか、余計に不安になってしまうかは分からないが、少しでも、今不安な気持ちでいるあなたのためになったら嬉しい。
出産レポート
①突然の出血と入院
妊娠21週と3日。
その日曜は、元同僚の家で手巻き寿司パーティーの予定だった。
何を着て行こう?ワンピース?でも椅子じゃなくてリビングで食べるスタイルだったらスカートじゃない方がいい?それにまだ妊娠報告をしてないから、今日話さなきゃ!実は手巻き寿司なのにお刺身は食べれないんだよな〜!てへ!
なんてことを思いながら朝イチのトイレへ行くと、便器が赤くなった。
なんとなくお腹が張っているような気もするが、弱い生理痛のような感じ。
妊娠してから便秘がちだったので、これくらいのお腹の違和感は前からあった。
でもちょっとあまりに鮮血だということが不安になり、朝ごはんを食べて病院に電話した。
朝ごはんは、前日大量に揚げたエビフライの残りを野菜と共に食パンに挟んだ、えびカツサンドだった。
状況を伝えるとすぐに来てくれとのこと。
夫に運転してもらい、受診後に何もなければそのまま同僚宅に向かおうと、車の中で化粧を済ませた。(でも化粧は完全に無駄で、逆に夫にクレンジングを買って来てもらう手間が増えてしまったので、今となっては申し訳なく思う。)
問診をして、内診。
これは…胎胞?これが頸管かな…いや、ちがうか…?よく見えないなあ…
と医師と助産師の不穏な会話。
この時点で今日は手巻き寿司パーティーをキャンセルしなければいけないことを悟った。
生ものが食べれなかったとしても行きたかった、手巻き寿司。
元同僚の彼女に初めてお会いするし、お宅にお邪魔するからと手土産にハンドクリームも買ってあったのに。
車で待つ夫を呼び出してほしいと言われ、一緒に医師の説明を聞く。
子宮頸管無力症による切迫流産とのことだった。
つまり、流産しかけている状態。
子宮口が1cmほど開いていたらしい。
子宮口から、胎胞(赤ちゃんが入っている袋)が出てしまっていた。
私は漫画『コウノドリ』を連載開始当初から愛読し、実家にあった単行本を借りてきて夫も全巻読破したところだったので、医師の説明を聞きながらも結構冷静だった。
「あ、安静っすね、そうっすよね、このまま入院っすよね〜」と受け入れることができた。
切迫流産は1巻のtrack2で出てくる話題で、とても印象的な回のひとつでもある。
漫画では高位破水が始まって羊水が流れ出てしまっていたので、なんなら「でも私はまだ破水してないし、漫画の展開よりはマシな状況かも」とすら考えていた。
とはいえ医師の話はなかなか重たく、
「子宮頸管を縛る手術(子宮頸管縫縮術)があるが、胎胞が飛び出してしまっている状態だと難しいかもしれないです。子宮頸管無力症というのは体質的なものなので、次の妊娠をするときにも起こる可能性が高く、次回はもう少し早い週数の時点で頸管を縛る手術をするのをおすすめします。あと次回の妊娠のときは…」
え?次回の話?つまり今お腹にいるこの子は諦めなきゃいけないってことかい??????
とんでもない絶望を突きつけられた気分だった。
もちろんそのまま入院。安静を言い渡された。
この時点で私の妊娠週数は21週3日。
実はこれが結構絶妙な日数だった。
22週未満で妊娠継続が不可能になると「流産」、22週0日以降は「早産」もしくは「死産」となる。
つまり21週6日までにお腹から出てきてしまった場合、助けることができないのだ。
②NICUがある病院へ転院、子宮頸管縫縮術をうけ22週を迎える
「22週の壁」というのがあるのは知っていたが、妊娠中には「⚪︎週の壁」というのが多すぎて検索魔になりがちだ。
多すぎる壁にうんざりしつつ、いわゆる安定期である16週の壁を超えてからというもの、正直なところ油断をしていて、「今出てきちゃったら流産」という認識が薄かった。
翌日医師から改めて話があり、無事に22週0日を迎えられた場合、今いる病院はそれほど大きな病院ではないため、たとえ無事22週を迎えても超早産だった場合に赤ちゃんを助ける設備がないとのことで、近隣でNICUがある病院を探してもらった。
多くの病院が「22週を迎えてから受け入れ再検討」となる中で(普通はそういうものらしい)、夫の職場から一番近い病院がすぐに受け入れてくれた。
これが本当にありがたかった。
すぐ救急車で(安静ってだけでめちゃくちゃ元気なので不思議な気持ちで)搬送され、転院先の病院で内診。
やはり胎胞が見えており、子宮口の開きは3cmほどと、たった1日で2cmも開きが大きくなっていた。
「明日までもつか微妙だ」とはっきり言われた。入院している部屋からトイレまで20歩程度しかないのに、トイレに行く際は看護師を呼んで車椅子で連れていってもらうようにと指示されるほど緊迫した状況だった。
もし翌日まで耐えた場合には、どれくらいもたせることが出来るか分からないが、頸管を縛る手術はした方がいいのではとのことで、一晩はお腹の張り止めの点滴をして様子見をし、翌日手術をした。
手術をしたはいいものの、頸管がだいぶ脆くなってしまっていて、半分しか縛ることができなかった。
手術中も我が子はとても元気で、はみ出している胎胞から動いている足の形が分かったらしい。多動なのかもしれない。
さてここからが長い入院の始まり。
トイレ以外は歩行もできないため、病室のすぐ隣にある診察室に行くのにも車椅子を出してもらう状態。
MFICU(母体胎児集中治療室)で、とてつもなく暇な時間が始まった。
とりあえず私が目指すべきは22週0日。
手術をしたのが21週5日のことなので、あと2日もたせることが出来れば良い。
この2日間が本当に長かった。
この2日間のうちで、新生児科の先生から、早産で産まれることのリスクや、週数ごとの生存率、考えられる後遺症や合併症の説明を受け、
早産で産まれた場合に赤ちゃんの蘇生措置をするのか否か決めてほしいと、正解のない問題を問われた。
平たく言えば、「赤ちゃん助けんの?お母さんと赤ちゃん、どっち優先すんの?赤ちゃんは助かっても障害が残る可能性が高いけどどうすんの?」ということ。
あえて乱暴な表現を使ったが、実際は私たち夫婦がきちんと考えられるように、とても丁寧に説明していただいた。先生もそんな説明をするのはつらいだろうと思った。
本当にこの問いには正解がない。
でも夫も私も納得したうえで、なんらかの答えを出さなければいけなかった。
しかも、その日の昼に説明をうけ、夕方までに決めてほしいと。それくらい一刻を争う状況だった。いつ破水するか分からないので、当然なのだけれど。
この時期の赤ちゃんは骨盤位(逆子)であることが多いこと、
早い週数の帝王切開となると母体への負担がかかったり、次の妊娠の際に子宮破裂などの危険性があること、
産んで後遺症が残ったお子さんに対して「無理して治療させてしまっている」と申し訳なく思ってしまう両親も多いこと、
いろんな話をふまえて私たち夫婦なりの結論を出したが、どんな結論だったとしても、「母子共に健康、赤ちゃんも後遺症も合併症もない」以外の結果だったとき、何らかの後悔があるだろうと思っていた。
つまり結果が全てで、どんな結論でも後悔が残りそうだからこそ、私たちが納得していることが一番大事だったし、それ以外に決め方はなかった。
こんな決断を迫られることは、人生のうちにそうないと思う。
早産の体験談は、ネット上のものは全て目を通したんじゃないかというくらい読み漁った。少しでも情報がほしかったし、安心したかった。
術後の経過が良く、子宮口が今まで以上に開いている様子はなかった。
入院時点では「今回は諦めて次の妊娠のこと中心に考えよう」という雰囲気だったのに、
21週6日には「お?22週いけるぞ?」という感じになってきていた。
ぐうたらな私にとって1日寝たきりで過ごすことは普段ならなんてことないが、1日が、1時間が永遠に感じるほどシビアな状況だった。
無事に22週0日を迎える2月1日0時までは、消灯時間になっても眠れなかった。
無事に22週0日を迎え、万が一産まれてしまっても蘇生ができるようになって、心からほっとした。
産科の先生たちも「正直無理だと思っていた」という様子だった。
22週を迎えたとはいえ、もちろん長くお腹にいるだけ赤ちゃんの生存率が上がるので、できるだけもたせたい。
予定日までもった場合には最長4ヶ月の入院ということになるが、我が子が無事に産まれてくるためならいくらでも我慢できると思った。
③入院中の葛藤と、支え
入院中は自分を責める気持ちばかり湧き上がってきた。
もって生まれた体質のことなので私に落ち度はないと分かってはいる。でもそう簡単に気持ちの整理はつかない。
私がもっと健康だったら?太ってるから?つわりが軽いからと遊びすぎた?直前の仕事で立ちっぱなしの時間が長かったから?毎日のウォーキングは頑張りすぎだった?体外受精だったから?早く会いたいと思ったから?
自分を責めても何も変わらないのだけど、心というは難しい。
我が子のためなら何でもしてあげたいのに、ベッドの上で安静にすることしかできないことがもどかしい。
そんなときに自分を立ち直らせてくれるのは我が子で、「我が子がこんな頑張ってるのに、母親の私がうじうじしてどうするんだ!」という気持ちが私の支えだった。
産まれる前から我が子に救われていた。
夫には感謝してもしきれない。「夫のサポート」という言葉があるが、全然サポートなんかではなかった。二人三脚でしかなかったと思う。
忙しい中での面会や、諸々の手続きだけでなく、気持ちの面で大きな支えだった。
今回の出産に対する考え方や、生まれてもどんな状態になるか分からない子どもに対する考え方を話す中で、「夫と私はずいぶん夫婦らしくなっていたんだな」と感じられたことが心強かった。
月並みな言葉だけれど、どんなことがあってもこの人となら大丈夫そうだ、と思った。
これはちょっと変な話だが、昨年亡くなった義母が守ってくれている気もしていた。
義母が亡くなった2日後に体外受精で移植をして授かった我が子だったので、お義母さんが授けてくれたと考えていたし、
夫の家系は男の子が多く、夫も男兄弟という中で「本当は女の子も欲しかった」と義母が話していたので、妊娠が判明した瞬間から私は直感的に我が子は女の子だろうと思っていた。
今回の入院でお腹の子の性別が女の子と判明し、「ほら、やっぱりお義母さんが守ってくれてる」と思った。
娘には毎日話しかけた。
今日も頑張ったね、明日もまた頑張ろうね、と。
さすが私と夫の子、褒められて伸びるタイプなのか、なんと頚管を縛った手術後はずっと頭位(頭が下の体位)でいてくれた。
もし陣痛がきてしまっても、経膣分娩が可能だった。
次の妊娠を視野に入れた場合に、早期での帝王切開は避けたいと思っていたので、なんて空気の読める子なんだとベタ褒めした。
あんまり必要以上に空気を読む子にならないか心配なくらいだ。
④破水、出産
22週4日で、少し破水していることがわかった。
少しずつ羊水が流れ出ている状態なのですぐに何か起こるわけではないが、着実に分娩が近づいていることを感じていた。
それでも1日でも長くお腹にいてもらうことが大切だったが、感染症が発覚し、炎症の数値が高くなってきた23週5日の明け方から、お腹の痛みが始まった。
今までもお腹の張りはあったが、張り止めの点滴を増やすことでおさまってきていた。しかし今回は違いそうだぞということが自分でも分かった。
どんどんお腹の痛みが強くなる中で「お腹の張り 陣痛 違い」と検索していた。
「お腹の張りは横になればおさまるけど、どんどん強くなるようなら陣痛!」というような(痛すぎてあまり覚えていない)結果を見て「陣痛ぢゃん…」と思った。
中学生の頃にみんなが使ってるけどなんだかよくわからないなと、思っていた「ぢゃん」がこのときの気持ちにぴったりだった。
「陣痛ぢゃん…」のためにぢゃんは存在していた。
この日は2月13日。少し前に「2月13日に生まれちゃったりしてね」と話していたのがフラグになったようだ。
というのも、私の父がひな祭りイブ(3月2日)生まれ、私が七夕イブ(7月6日生まれ)なので、バレンタインイブに生まれちゃうかもねと言っていたのだ。なんて空気を読む子なんだ。でもフリじゃないんだよそれは。
おそらくこのまま点滴量を増やして痛みをおさえるということもできたのだが、23週の後半に入っているし、炎症の数値を考えるとこのままお腹にいることも危険とのことで、張り止めの点滴をストップさせて分娩室に移動となった。
お産自体は普通と変わらないので割愛する。
しいていえば、帝王切開に対して「大量出血で死んだらどうする?今回無事でも次の時に子宮破裂とか怖すぎ…」とビビり散らかしていたのに、
「もう何でもいいから早くお腹を掻っ捌いて赤ちゃんを出してくれ」と本気で思うほどには経膣分娩もつらかった。
陣痛は赤ちゃんの大きさに関係なく想像を絶する痛みだったが、出てくる瞬間はスムーズだったかもしれない。会陰切開もしなかった。
30.1cm、596g、ペットボトルサイズの女の子がこの世に誕生した。
すぐに小児科の先生たちが処置をしてくれて、NICU、GCUでの約4ヶ月の入院を経て、明日退院してくる。
入院期間のことに関しては、詳細を書くにはあまりに医学的知識がないし、娘のプライバシーにも関わるので割愛するが、
現段階で大きな合併症や目立った障害はないようだ。
娘と自分を救ってくれた病院の皆様や、
絶対に自分もつらいのに私を励ましながら一緒に走ってくれた夫、
次々変わる状況に理解をしてくれた夫の職場、
無事を祈ってくれた家族や友人、
そして粘り強く頑張った娘に、
改めて感謝を伝えたいと思います。
これから育っていく我が子に、あなたの周りにはこんなに素敵な人がいっぱいいるんだよと教えてあげたい。
不妊治療でつらかったこと
私は多嚢胞性卵巣という病気で、自力での排卵ができず、4年間の不妊治療を受け妊娠に至った。
体外受精の前にも以下のような治療を受けている。
幸いにも1回目の体外受精で妊娠することができたが、出口の見えないトンネルの中にいるような4年間だった。
①自尊心が削られていく感覚
昔から生理不順で、ある時から無月経になってしまっていたけれど、それでもなぜか「まあちょっと治療したら普通に妊娠するでしょ」と謎の思い込みをしていた。
だから結婚して2年間は不妊治療に対してあまり焦りはなく、排卵誘発の薬を飲む程度。なぜか普通に妊娠できると思っていた。
だから、自分がなかなか妊娠できないということを自覚した頃から、「女性として欠陥品である」と思うようになった。
夫に「私は子どもを産めないかもしれない、離婚するなら早い方がいい」と提案したこともあった。もし夫が自分の子どもを望むなら、できるだけ若いうちがいいと思ったからだ。
幸い夫は「なんでそんなことを言うんだ」と言ってくれたけど、私は本気で考えた結果だった。
②通院は臨機応変な対応が求められる
そもそも、通院がとても大変だった。
例えば、「排卵誘発剤を投与したけど、まだみたいですね。明日また様子を見たいので、来てくださいね」というようなことが頻繁に起こる。
私は不妊治療をしていた期間の大半は、時間休や早退をしやすい職場に勤めていたので通院をこなすことができていたが、それでも片道1時間の通院は大変だった。
また、不妊治療を始めた頃は人口5,000人の田舎町に住んでいた。通院というだけでなく、地方によっては病院の選択肢が少なかったり、都会よりも通院が大変ということもあると思う。
働きながら不妊治療に力を入れることは本当に難しい。
③とんでもないペースでなくなるお金
不妊治療は2022年4月より公的医療保険の適用対象になった。
しかし私の場合は、体外受精において保険適用外の治療を行う必要があったため、結局全て自費での診療となり、最終的に新卒の年収くらいの金額はかかった。
混合診療ができないことを心底恨んだ。
また、保険適用になったことにより、以前あった助成金制度が廃止となったために、保険適用前よりも経済的な負担が増えている人は少なくないようだ。
我が家は共働きとはいえ夫の稼ぎの方が多かったので、自分の体質のせいで夫が必死に働いて稼いだお金を食い潰しているという感覚がずっと抜けなかった。
ここでもまた「夫は自分以外と結婚していれば、こんなにお金をかけずにお父さんになれたのに」と思ってしまう。
もし、不妊治療を望んでいて費用に不安がある方は、「これだけしかお金は出せない中で、どこまで治療を行うか」という相談は医療機関でできるはずなので、費用を理由に二の足を踏んでしまっている人はぜひ一度相談してみてほしい。
④身体的な痛み
これは個人差がある話なので、あまり参考にならないかもしれないが。
私の人生で痛かったことランキングは以下の通りだ。
1位:椎間板ヘルニア
2位:出産
3位:採卵
出産を上回るほどヘルニアが悪化したことについては別の記事で語りたいくらい辛かったわけだが、採卵は私の中で相当トラウマになっている。
そもそも産婦人科の診察台に乗ることや、内診をされることが苦手な方も少なくないと思うが、私は採卵前はそれほど抵抗感がなかった。
しかし採卵後しばらくは診察台に乗って足を開くことがとにかく怖く、どうしても採卵の時の痛みを思い出してしまって汗が吹き出す。
麻酔の効きが良くなかったうえに、30個も卵子が採取できてしまったので、シャワーを浴びたかのように汗だくになりながら痛みに耐えた。もう二度とあの痛みは御免だと思っている。
あの痛みを経験するくらいならもうこれ以上子どもはほしくないと思うという意味では、出産よりもつらい痛みだったかもしれない。
痛みに弱い人は全身麻酔をおすすめする。(私は、自分が痛みに強いという自負があったのだが、全身麻酔にしなかったことを本気で後悔した)
人によっては採卵は痛みがないということや、私は平気だったが移植や卵管像影の時に痛かったということもあるようだ。
人それぞれではあるが、自分の体が悪いわけではないのに子どもを授かるために処置台に上がるということは、かなりの覚悟が必要だと思う。
切迫早産・早産でつらかったこと
①「何もできない」ということ
前述したが、私の今回の早産の原因である子宮頸管無力症というのは、現段階ではっきりとした原因はわからず、体質的なことも関係しているらしいので、いわば私に落ち度はない。
それでも自分を責め続けるのに、安静にしている以外に私にできることは何もなかった。
そもそもなんで私たちの子が、という思いも拭えなかった。
長い不妊治療の末に授かった、待望の第一子なのにと。自分の妊娠出産ばっかりなんでこんなに前途多難なんだと、そんなことを考えたりもした。
まともに妊娠することができないだけでなく、出産も普通にできないなんて、女性として欠陥品であると再び悩んだ。
私が妊娠を望んだのは、自分がお母さんになりたいというよりも「夫をお父さんにしたい」という気持ちがあったからだったので、「私以外の女性を選んでいたら夫は今頃お父さんになれていたのに」などと、どうしようもない考えがまた頭から離れなくなっていた。
②周りに報告しづらい
報告しづらい理由は大きく2つある。
予後がわからないことと、気を遣わせてしまうかもしれないということ。
予後がわからないことから、家族や親友など本当に近しい人にしか言うつもりはなかったのだが、夫の仕事関係には急に休みをもらったりするかもしれないので報告しなければならない。
だがうちの場合、夫の仕事関係者には私の知り合いもいたりして、私としては複雑な心境だった。
もちろん、予後がどうであろうと生まれたことは喜ばしい。我が子のかわいさを全世界に自慢したいくらいだったが、自分でも意外だったのは「おめでとう」と言われることがつらかった。
どうしてなのかはいまだに分からないが、早産だったことを自分のせいだと思っていたことに原因があるように思う。
「おめでとうかどうかまだ分からないのに。まあ全部私のせいなんですけどね。」といったところだろうか。
もし報告することがつらい人は、自分の気持ちの整理がついてからでいいと思う。
私の場合、我が子はNICUでとても順調に成長していたにもかかわらず、最初の1ヶ月半くらいは人に報告することに複雑な気持ちで過ごしていたので、産後のホルモンの影響もあると思う。
私の経験上、後から報告したことで「なんでもっと早く言ってくれなかったの!」と怒った人は誰一人いないので、報告なんて自分の気が向いたらで良いやと考えてほしい。
③新生児室が近い
これは病院による。
私は妊娠中はMFICU(母体胎児集中治療室)に入院したが、産後は普通に産科病棟に移動となった。
そうなると同じ病室に臨月の妊婦さんや、出産を終えたばかりのお母さんがいる。看護師さんと話している「産科では普通の会話」にじわじわと追い詰められる感覚に陥った。
自分はどうして普通の出産じゃなかったんだろう?と。
それに加えて精神的につらいのが、新生児室がすぐ近くにあることだ。
四六時中赤ちゃんの泣き声が聞こえているし、NICUに面会に行くたびに前を通る。
私が一番つらかったのは、新生児室の中に授乳スペースと搾乳スペースが混在していること。
私が母乳が全然出なかったということもあるが、授乳しているすぐ横で、私は泣きながら、うんともすんとも言わない乳首を機械に吸われていた。
早産と母乳が出にくいことはあまり関係がないらしい。
しかし助産師さん曰く、赤ちゃんに吸われることと自分でマッサージすることではやはり差があるようで、「不妊で満足で妊娠できないし、出産も普通にできなくて、そのうえ育てる能力までないのか私は」と考えてしまい、退院してからも1ヶ月間はほとんど泣いて過ごした。目が腫れていない日はなかった。
母乳に関してほとんどノイローゼ状態だったが、1ヶ月検診で「出なくても良いんじゃない?赤ちゃんが帰ってきたときのために柔らかくするマッサージは続けてさ」と助産師さんに言ってもらったことで、ようやく少し楽に考えることができた。
その間NICUにいる我が子は母乳バンクから届けてもらうドナーミルクを飲んですくすく育っていたので、自分を責めるエネルギーは母乳バンクへの感謝に変換することとした。
母乳バンクという仕組みは本当に素晴らしいので、もっと広まるといいなと思う。
④正規産の子を見るのは複雑
つらい、とも少し違う感覚。羨ましいというのともまた違う。本当に「複雑な気持ち」だった。
だって、道ゆく赤ちゃんはかわいい。
夫と私の間では、赤ちゃんのことを「かわいい」と呼んでいたくらいだ。「ほら見て、かわいいが歩いてるよ」などと言っていた。
でも我が家のかわいいは病院にいて、買ってあるベビー用品は部屋の隅で「出番まだですか?」という顔をしている。
ホルモンバランスが元に戻ってきた頃にはだいぶ吹っ切れていたが、予定日が近かった子を見るのは今でも少し複雑で、少しだけ苦い気持ちになる。
⑤ベビー用品店には近づけない
596gで生まれると、ベビー用品が必要になるのはずっと先のことだ。
肌着なんて着ないし、オムツも5sサイズなので、病院の売店でしか取り扱っていない。
それでも気まぐれに「アカチャンホンポ・・・行ってみようかな・・・」と思い立ったことがある。出産して1ヶ月経ったくらいだったと思う。
入ったことをすぐに後悔するほどブルーな気持ちになってしまい、3分と滞在せずに退店したと思う。
「うちの子がこんなに可愛い服を着る日は本当に来るんだろうか」と泣きながら帰った。
先述した通りほとんど必要なものはないが、ある程度身体が大きくなり力も強くなってから、胃管を抜いたりすることがないようにミトンが必要になった。
アカチャンホンポに小さめのミトンがあったのでおすすめしたい。娘にはこれでも大きくて、手首のところをテープで留めて使っていたが。
ちなみに、小さく生まれた赤ちゃん用のグッズを多く取り扱っているところもあるので、参考までに。
まだ気持ちが落ち着かないうちは、ベビー用品店にはあまり近付かない方が良い気がする。人によっては退院後の生活を想像して励まされるかもしれないが、私にはちょっと難しかった。
⑥出産後のNICU通い
これは私はあまり大変ではなかったのだが、人によっては大変になると思う。
我が家の場合は、病院まで1時間以内だし、私も車の運転ができるし、夫の職場も近かったので毎日夫婦で通った(夫は仕事で来れない日もあったが)。
他のご両親や体験談を読む中で大変そうだと思ったのが、
・病院まで遠いから毎日は通えない
・病院によってはコロナ対策などで面会頻度が制限されている
・冷凍した母乳を持参する
・容体が急変したり、緊急手術の際には昼夜問わず呼び出しがある
など。
子どもの状態や自分たちの環境によるところが多いので、もしかしたら苦労する人もいるかもしれない。
⑦2人目を望むかどうか
これはつらかったというよりも今現在迷っていること。
私は仲のいい妹がいて、姉妹がいてよかったと思っているので、子どもを作るなら一人っ子というのは考えていなかった。
しかし今回こういう出産になってしまったことによって悩むようになった。
子宮頸管無力症というのは体質的なものなので、次回の妊娠でもおそらく同じようになる。
もっと早い週数から縫縮術を受けるということはできるが、実際どれくらい効果があるのかは分からず、「我が子を危険に晒す可能性」は平均より高いように思う。
まあ、でも、しばらくはとにかく生まれたばかりの娘を育てるので手一杯なので、今すぐ決めなければいけないことではないのだが。
それでも自分の人生観が変わる出来事の一つであった。
早産でよかったこと
よかったことなんてあるの?!と思うかもしれない。もちろん正規産であることが一番だ。
なので、「よかったこと」というより「私が今回のことをポジティブに捉えるために考えたこと」を書いておく。
①母体が回復した状態で赤ちゃんを迎えられる
これが圧倒的なアドバンテージだ。
普通は産後5日か7日のボロボロの状態で自宅での育児に突入しなければいけない。
私は会陰切開もなかったからか、産後の回復が異常に早く、産んで2時間後には自分の足でスタスタと歩いてトイレに行っていた。
800mlの出血があって輸血寸前だったのに普通に歩く私を見て、助産師さんも軽く引いていた。
退院日には母が来てくれ、約1週間分のご飯を作り置きしてくれた。
でも私は当時は自分がボロボロの身体である自覚がなかったので、「別に料理くらいできるんだけどなあ」と思っていた。
しかし今考えると、明らかに身体はボロボロだった。
少し動くとすぐ疲れて、何もしていない日でも昼寝なしでは生活できなかった。
もちろん長期入院で体力が落ちていた影響もあるかもしれないが。
つまり普通はこれ以上にダメージを受けた身体で、24時間赤ちゃんを見なければいけないのかと思うと、全国のお母さんたちに褒賞くらいあげないと割に合わない。なんて偉大なんだお母さんは。(もちろんお母さんと二人三脚で頑張るお父さんも偉大なのだが、今回は身体のダメージがあるかないかという話なのでちょっと置いておく)
それに比べて、私はすでに産後4ヶ月なので、身体は元に戻っている。
体力100%の状態で育児に入れることはとてもありがたい。
②かわいい期間が長い
これは先ほどとは違って、ポジティブに捉えるための考え方。
早産だと周りから言われがちなのが「赤ちゃんは、お父さんとお母さんに早く会いたくて出てきたんだね」ということ。
これがつらいという人もいるみたいだ。私はあまり気にならなかったが、しっくりもきていなかった。
(この言葉に救われる人もいるようなので、この考え方自体を否定はしない)
なので私は、「4ヶ月早く生まれたということは、正規産の赤ちゃんよりもかわいい期間が4ヶ月も長いってことじゃん!」と考えることにしていた。
正規産ではお腹の中にいて見られない姿を、自分は見れちゃってるよ〜!!ラッキ〜〜〜!!!と考えると少し気持ちが楽だった。
本当は、そんなに小さく生まれてかわいく思えるのか不安な思いもあったが、保育器の中で頑張る我が子はとってもかわいかった。
今回の学び
①【不妊治療】ブライダルチェックは早めに
前述したが、私は結婚してすぐは不妊治療に対してあまり積極的ではなかった。「2年くらいは夫婦二人でゆっくり過ごせたらいい」という考えからだったが、今となってはその2年間は不要・・・とまでは言わないが、もう少し焦っておけば良かったと思う。
ブライダルチェックは結婚していない方でも受けられる。
女性特有の疾患のチェックという意味でもおすすめだが、「妊娠を望んだとき、自分はすぐに妊娠できるのか」ということを知っておいてほしい。
不妊の傾向にないのであれば、それこそ「結婚してしばらくは夫婦だけで過ごそうね」としてもいいのだから。
将来的に子どもを授かりたいという希望がある方は、ぜひ今すぐにでも検査を予約してほしい。
結婚した場合には、夫である男性の方もぜひチェックしてほしいと思う。
不妊の原因の半分は男性側にあると言われている。
不妊検査を屈辱的に感じる男性もいるという話は耳にするが、子どもを望んでいるのであれば、本当にそれが屈辱なのかどうか、もう一度よく考えてほしい。
②【妊娠】『コウノドリ』は夫婦で履修しよう
私だけでなく、夫にも読んでもらっていて良かったと思っている。
漫画を全巻読むのが一番だが、ウェブで無料公開されてる範囲だけ読むでもいいし、ドラマ版を見るだけでもいいと思う。
大事なのは「妊娠・出産は奇跡の連続で、赤ちゃんが生まれるのは当たり前じゃない」ということを夫婦で認識しておくこと。
妊娠・出産に関する本や映像作品はほかにもあるので、その認識さえできれば何でも構わないが、私はコウノドリが一番とっつきやすかったのでおすすめ。
いざ想定外の状況になっても「進研ゼミでやったやつだ!」みたいな気持ちでいられるかもしれない。
また、少し前に「産休クッキー」がSNSで話題になった。
この投稿に対して「かわいい」「もらったら嬉しい」という肯定的な意見がある一方で、
「不妊治療をしてる人への配慮が足りない」「同僚に仕事の負担が増えるのに」という否定的なコメントも多く見られた。
「配慮」という点に関してはそれぞれの考え方があるので私個人の意見は控えるが、今回の妊娠出産でいろいろあった身からすると「あんまり幸せいっぱいなものを配っちゃうと、何かあったときに余計つらいのでは」と想像してしまった。
もちろんこのクッキーや配った方を批判したいわけではなく、自分が妊娠を知らせていた人にどう報告しようかとと、ちょうど悩んだ時期だったので、勝手に心配になってしまっただけなのだが。
クッキーを配るな!ということではなく、「何があるか分からない」という考えは常に持っていてほしいということを伝えたい。
③【妊娠】NICUがある病院を調べておこう
妊婦検診を行なっているクリニックや、分娩に対応してくれる産院はたくさんあって、私自身も病院選びにはかなり悩んだ。
分娩費用、設備、通いやすさ、立ち合いの可否、母親学級の有無・・・などポイントはいろいろある中で、私は自宅からの通いやすさを最優先にしていた。
結果的に自分で選んだ病院ではなく、もっと大きな病院で入院と出産を経験し、最初からこちらの病院にしていた方が安心だったかもと感じた。
もちろん人によってさまざまな事情があるし、「こういうお産がしたいからこの助産院がいい!」というこだわりのある人もいると思うので、あくまでも
・お産方法やバースプランにあまりこだわりがない
・通院や費用の捻出が可能
という場合はNICUがある病院をおすすめしたい。
(ただし、病院によって受け入れてもらえる条件等あると思うので、お近くの病院がどうなのかは確認してほしい。)
もし環境的に難しい方や抵抗がある方でも、近隣の病院でNICUがあるのはどこなのかということは調べておいた方がいいと思う。
私は最初住んでいるA県ではなく、隣のB県にある病院に切迫流産で入院した。
そこからNICUのある病院に転院しようとなった際に、B県にある病院を提案されていた。B県にある病院なのだから当然だ。
しかしA県(しかも夫の職場のすぐ近く)にNICUがあることは調べてあったので「A県の⚪︎⚪︎病院はどうですか」とこちらから持ちかけ、「あ、なるほど、⚪︎⚪︎病院にもNICUあるもんね」と提案が通った形での転院だった。
救急車に同乗した看護師さんが「県をまたいで転院につきそうって、数えるほどしか経験ないです」と言っていたので、こちらから提案しなければ実現しなかったと思う。
B県にある病院に入院していたら、面会の回数は減っていたと思う。
なので、ぜひ近隣でNICUがどこにあるのかはぜひ調べてみてほしいと思う。
まとまっているサイトもあったので、参考までに。
最後に
娘が誕生してから、「我が子は天使のように可愛い」のような、我が子を天使と例える表現が目につくことが多かった。
そりゃもうかわいさは天使級だけど、でもなんとなく天使という言葉には違和感があった。もちろん、天使という表現を否定したいわけではない。我が子のかわいさは、今存在する言葉で表現するにはそれが一番適切だと思う。
でも娘を「天使」と表現するには、彼女はあまりにタフで、不屈で、たくましい。
2週間の絶対安静を乗り切った「戦友」のようでもあった。「戦友」はきっとこれから、毎日私たち夫婦を寝不足にするだろう。
「戦友」なんて言ったら「頑張ったのは私で、お母さんは病院のベッドで寝てただけでしょ」なんて言い返すくらい、図太い子に育ってくれたら本望だ。
生まれてすぐに人の何倍も大変な思いをした我が子が、人の何倍もの幸せを掴むことを願っている。