人に興味が無い、ということではない。

久しぶりにnote。

  自分は学校の人間に何一つ興味が湧かない。別に偏見がーとか、そうではない。少なくともその自覚は無い。

  一方で仕事だと多少は興味が湧く。

  このときの“興味”とは人間としての付き合いの意味でもあり、人間観察の対象としての意味でもある。

興味が湧かない、とはどういうことなのか。それは言葉の通りとしか。本当に興味が無い。存在を認める、それだけ。そこに同年齢と思わしき男性が居て女性が居る、交流している。それだけ。話しかけないのか?話しかけて何のメリットがある。どうせ切られる。

気付いた。切られると思ってるのである。人間関係で“保った”経験がろくに無いのである。所詮自分は、“切られる側”なのである。私の代えは幾らでも居るのである。それを最も感じているのが、実態として代わりが幾らでも居る職場ではなく学校なのだから最早どうしようも無い。

前提から“切られる”が存在している以上、これはどうにもならない。やはり根本の人間不信は永久に、死ぬまで背負い続けなければならないようだ。

ただ疑問なのが、どうして職場でそれをそこまで感じないかである。これは簡単である。替えというか、そもそも入る余地すら有るか怪しいと知っているからである。自分がその人の土地に入ったとて、替わりどころか消えても良い札であると分かりきってるからである。何と単純。

大切にしてくれる友達が欲しいです。捨てられるの飽きました。良い火曜を。


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