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受け身で他力本願な創造性を発揮しよう

こちらはMIMIGURI Advent Calendar 2022の第21弾の記事になります。
6つのキーワード(対話・衝動・葛藤・学習・遊び・理論と実践)を基に、様々なバックグラウンドを持つメンバーが記事を書いていますので、よろしければぜひご覧ください。


初noteなので、まずは簡単に自己紹介を。
普段は株式会社MIMIGURIにて、コンサルティング事業でファシリテーションやプロジェクトマネジメントを行ったり、今月開校したCULTIBASE Schoolで講座のプログラムデザイン及びファシリテーションを担っています。

大学(農学部)で生態学・環境文化史・環境倫理学を学んだ後、新卒ではアパレル販売員をやり、転職して研修会社の法人営業をやり、さらにミミクリデザイン(MIMIGURIの前身の1つ)に転職して今に至る、という感じです。
また、非営利の環境教育団体をやったり、奈良県立大学 地域創造研究センター(仕事文化研究ユニット)の共同研究員の肩書きも持っていたりします。

本来は人間“以外”の生き物が好きでそれに向き合う仕事をするつもりだったけど、気づけば人や組織に向き合う仕事をしている、という感じです。

本記事のテーマ


私のバックボーンである生態学・哲学(倫理学)・文化人類学を基に、「創造性」をどう捉えるか、ファシリテーション実践においてどう繋がるかをまとめてみようと思います。(アドベントカレンダーのキーワードで言うと「理論と実践」かな。)

MIMIGURIにとって「創造性」は中核的なキーワードであり、自分自身が何かを「創造」するときにも、クライアントの「創造」プロセスにファシリテーターとして伴走・参画する際にも、「創造するって、どういうことだ…?」という探究的な問いからは逃れられません。

MIMIGURIには、「創造性」をまさに研究テーマとするプロフェッショナルがいるので、「創造性とは何か?」というド真ん中な問いに対するアカデミックな回答については、下記のCULTIBASEコンテンツを参照いただけると嬉しいです。

CULTIBASE会員の方向けになりますが、動画コンテンツもありますので是非。
拡散的思考の歴史
創造性とは何か:M.チクセントミハイの理論から紐解く

その上で私は、自身のバックグラウンドに基づいた捉え方=生態学や哲学や文化人類学的な視点で培われてきた「創造観」を、この機会に言語化してみようと思います。
それを端的な言葉にしたもの(=本記事の結論)が、タイトルにある「受け身で他力本願な創造性を発揮しよう」です。

本論の前段として、すでにCULTIBASEコンテンツとして一部まとめているものもあるので、こちらも見てみていただけると嬉しいです。
文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが『野生の思考』の中で用いた「ブリコラージュ」という概念や、その前提にある考え方を基に、多様性を活かしたチームづくりについて探究した記事です。

(会員向けのイベント動画ver.はこちら。華道家の山崎繭加さんをゲストにお招きして対談させていただきましたが、めちゃくちゃ面白かった…)

「創造する」のイメージに対する違和感


皆さんは「創造する」とか「クリエイター」といった表現を聞いたときに、どんなイメージが浮かぶでしょうか。「一般的なイメージ」と一まとめにするのは難しいと思いますが、例えば私は、

  • 0→1で何かを生み出すこと。今はまだ無いものを作り出すこと。

  • 創り手から始まる能動的な行為。創作者と創作物は主従関係。(創作者が創造

といったイメージを持っていました。あえて言葉にしているので、少し極端&恣意的な表現になっていますが、、、ネットで「創造」と入れて画像検索すると大量に出てくる「人の横に💡がパッと描かれている」ようなイメージです。

ただ、これは少なくとも私自身にとっては納得いくイメージ、というか“好きな”イメージではありませんでした。昔から、「あなたは何したい?」「あなたを表現して!」みたいなことを問われると「う〜ん…」と思考が停止してしまうというか、問いが刺さらないタイプです。挙げたようなイメージの「創造」や「クリエイター」は、すごいなーと憧れはしても、自分事にならない感じでした。

でも、「つくる」行為そのものはむしろ好きです。子どもと一緒に粘土や紙で黙々と遊ぶことも好きですし、仕事でも「プロジェクトの設計を考える」「ワークショップの設計を考える」みたいなことは自分にとって「好きでやっている”つくる”行為」という感じです。
でも、この時の自分の身体感覚は、先述したような「創造」のイメージからはちょっと遠いです。近いのはこんな感じ。

「木がよろこぶ形を…」とか、陶芸家の「土の声を聴くのだ…!(イメージ)」みたいな世界観というか向き合い方、ほんと好きです。

この辺の感覚の違いを、単に「クリエイター気質か、職人気質か」みたいな分類の話に着地させず、自分なりの「創造」の捉え方、そしてファシリテーターとしての実践に生かしていけないかなと思ったのが、探究の始まりです。

文化人類学に学ぶ「創造」


このモヤモヤっとした探究心にまず言葉を与えてくれたのが(文化)人類学の知でした。
例えば、レヴィ・ストロースは「仕事」の意味を2つに分類し、

【プラクシス】
創り手が完成像を思い描き、それを具現化する仕事観

【ポイエーシス】
道具や使い手(ユーザー)の中に存在する目的を見出し、それを具現化する仕事観

現在の西欧社会の主流はプラクシスだが、人間のより根底にある仕事観はポイエーシスであるとしました。

レヴィ・ストロース『野生の思考』を基に筆者が作成

また、レヴィ・ストロースが日本の「職人」に”現代に生きる野生の思考”を見出していたことを踏まえ、人類学者である中沢新一は「民藝」がまさに日本におけるポイエーシス的仕事観を示していると言っています。(民藝について、詳しくはこちら
「民藝」に登場するキーワードとして「用の美」「受動性」、仏教から引用した「他力本願」といったものが挙げられますが、さらにそれを「創造性」という概念と直接紐づけているのは、文化人類学者でKJ法でも有名な川喜田二郎です。少し長くなりますが、書籍『創造性とは何か』より引用します。

絶対的受け身とは全体の状況が自分に要求するから立ち上がるというもので、この方が実は主体性が高い。主体性については、よく人に強いられてやるのは主体的ではないといわれるがそれは一般論であって、本当は全体状況が自分にやれと迫るから、やらざるを得ないという方が、じつは真に主体的だ。

自分がやりたいからやるんだという方がいかにも格好いいように見えるけれども、その方が実は精神的に消耗が大きい。無理に自分を燃え立たせているという、何か不自然さがある。ところが全体状況でやらざるをえないとなってくると、強いられていると言えば強いられているとも受け取れるけれど、何か気が楽なのである。つまり自分と状況が一致しているということで、状況の外に自分がいて、外から状況をみているということではなく、自分の内側にも状況を持っているということでその状況の中から自分の主体性が導き出されてくるので、むしろ作為性が少ない。
(強調は筆者)

川喜田二郎『創造性とは何か』祥伝社, 2010

「絶対的受け身」こそ主体的が高い状態だ、というのはしっくりこない方もいるかもしれません。もし、採用面接で「絶対的受け身で頑張ります!」「座右の銘は、他力本願です!」と胸張って宣言する人がいたら、採用する会社は少ないかと思います。

私は川喜田の言っていることについて、直感的にはすごく納得できたのですが、もう少しロジカルに整理できないか考えた時に、これを「責任の持ち方の違い」と捉えられそうに感じました。
もし創造の起点が「創り手」自身にあると考えるならば、そこに発生するのは、創り手が関係者に対して自らの意図や意志を“伝える”、そんなアカウンタビリティとしての責任です。
一方、創造の起点を「物事や状況」そのものに見出す場合、まず発生するのは、物事や状況が今まさに求めていることに“応える”、そんなレスポンシビリティとしての責任です。

冒頭で、自分がいつも答えに迷ってしまう問いとして挙げた「あなたは何がしたい?」は、例えば関係者間で連携・協力していくために重要なアカウンタビリティを果たさせる問いであり、確かに大切な視点です。これがあることで「実現する可能性」は高まると思います。
一方で、物事や状況の存在と人を切り分けず渾然一体なものとして捉えるならば、人だけに主体を据えた「あなたは何がしたい?」という問いかけでは、実現したいことを見出していく支えになりにくいと感じます。物事や状況と人が呼応していくこと(レスポンシビリティ)をサポートする、つまり「受動的な創造」をサポートするには少し捻った問いかけが必要だ、というのが私の感覚です。

  • プロジェクトでメンバーのアサインや役割分担を行う際に、いきなり「このプロジェクトを通してあなたは何をしたいの?」を聞かない。まずは、「このプロジェクトは今何を欲してると感じる?」「このプロジェクトがあなたに訴えかけているものは何?」といった思考を進め、それに対して呼応するように湧き上がってくる「私は〇〇したい」を言語化する。

  • ワークショップやミーティングにおいて、「〇〇さんは何がしたい/言いたいのか?」だけでなく、「〇〇さんをそうさせた/言わせたものは何か?」という眼差しで向き合う

上記のようなファシリテーターとしての実践につながっています。

哲学に学ぶ、受け身の創造性を支える「偶然と驚き」


とはいえ、「創造って、受動的な態度で臨むことだね」という表現だけで探究を終えてしまうと、文字通り“受け身”で自ら工夫できることを想起しにくくなってしまうと感じます。
もっと「受け身の創造を積極的に行う」ことはできないかなと探究する中で、今度は哲学が役に立ってくれました。

ここでは、日本の哲学界の偉人の一人、九鬼周造の「偶然」「驚き」に関する考察を紹介したいと思います。ハイデガーらと同時代を生きた九鬼は、「いき(粋)」という概念や、「偶然」という概念に正面から向き合い続けた稀有な哲学者として有名です。そんな九鬼の「偶然」に関する考察は、日々の生活や仕事において「受け身の創造を積極的に行う」ための具体的なヒントを沢山示してくれています。

結論から言うと、「偶然とは、人や物事が潜在的に持っている可能性の現れのことである。そして、偶然に直面した時に生まれる感情が”驚き”である。だから”驚く”という感情を大切にしていこうぜ。自分の/世界の可能性を拓き、”運命”をつくっていく全ての始まりは”驚く”ことだよ。」っていう話です。

「偶然」とは? 「驚き」とは?

“有ることも無いこともできるようなもの、それがめったに無いものならばなお目立ってくるわけでありますが、そういうものがヒョッコリ現実面へ巡り合わせると、それが偶然なのであります”

九鬼周造『増補新版 偶然と驚きの哲学 九鬼哲学入門文選』書肆心水, 2011

“ともかくも、驚きという情は、偶然的なものに対して起る情である。”
“なお、驚きは、著しく人間的な情であるということもできる。”

九鬼周造『増補新版 偶然と驚きの哲学 九鬼哲学入門文選』書肆心水, 2011

これが九鬼による「偶然とは何か?」「偶然と驚きの関係とは?」への回答の1つです。
例えば、私がフラッと下北沢に遊びに行ったときにたまたま友人のAさんと遭ったとしたら、これは「偶然」です。
これを九鬼流に言い換えると、

  • 家を出た時点で、自覚はしていないが、私には「下北沢でAさんと遭う」と「下北沢でAさんに遭わない」の両方があり得ている。「絶対遭う」とも「絶対遭わない」とも確定していない。(必然でない)

  • そんな「下北沢でAさんと遭う」という可能性(世界線)が、ヒョッコリ現実に起きた(←驚く)

  • ヒョッコリ起きてみて初めて、「自分が下北沢でAさんに会う」という可能性(世界線)がこの世にあったことに気づける

    • 自分自身が「下北沢でAさんと会う人」であれる可能性(世界線)とも言える

    • 下北沢が「Aさんに会える街」であれる可能性(世界線)とも言える

    • Aさんが「下北沢で会える人」であれる可能性(世界線)とも言える

  • ただし、この時点ではまだ「顕在化した可能性」でしかなく、必然性(これからも下北沢でAさんと遭う)にはならない

    • 顕在化した可能性を基に「下北沢でAさんと会うべくして会う(遊ぶ約束をする)」という必然にしていくこともできる

という感じです。ポイントは3つです。

  1. 「偶然」とは、人や物事が持つ「潜在的な可能性」が現実に露わになった瞬間のこと

  2. この段階では、露呈はしていてもまだ「可能性」のままであり、今後「必然」になっていくかどうかは、その後の行動次第

  3. 偶然は「驚く」という観測行為があって初めて存在する。

1.は、「ポテンシャルフェチ」なファシリテーターとしては、重要な観点です。(「ポテンシャルフェチ」とは、MIMIGURI共同代表の安斎が度々使っている表現で、「人と組織のポテンシャルが開花する」ことにどうしようもなく惹かれてしまう性質を指しています。詳しくはこちらもご覧ください。)

そして、「学習の力を生かす」ファシリテーターとしても味わいがある指摘です。ここで言っている「可能性」とは、単に”物理的にあり得ること”を示しているだけでなく、自分の中の「固定観念」の存在を突きつけ、揺さぶるきっかけとしての意味も持っています。「固定観念とは、その人が暗に持っている”世界の必然性”のことだ」とも言えるかも知れません。
(九鬼はこの辺のことを「定言的偶然」などの呼び方で整理していますが、割愛します。)

また、3.も重要な視点です。これは、もし自分とAさんがすぐ近くをすれ違っていても”気付かなかった”ら、あるいは気づいたとしても「オッス〜、じゃ👋」と特に驚くこともせず流していたら、物理的な意味で“確率の低い出来事”は起きているかもしれないが、自分やAさんの生きる世界に”偶然=可能性の露呈”は起きていない、ということです。

ここまでをまとめると、人間の学習&創造のプロセスには、

入口:何か物事に対して”驚く”
過程①:自身に対する学びを得る(固定観念の問い直し)
過程②:物事に対する学びを得る(可能性の発見)
出口:”可能性”を新たな”必然”に昇華する

というパターンがあることを理解できます。
これをナチュラルにしているのが、いわずもがな、子どもです。

"もしもわたしが、全ての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。”

レイチェル・L.カーソン(原著), 上遠 恵子 (翻訳)『センス・オブ・ワンダー』新潮社, 1996

センス・オブ・ワンダーとして述べている「目を見はる感性」こそが「驚く力」であり、偶然を活かす力であり、受動的な創造性を発揮するポイントだと思います。
「道端にタンポポが咲いている」「好みピッタリの洋服屋さんがある」「プロジェクトメンバーが焦りを感じている」「つくったサービスが社内からも評判がいい」etc..森羅万象あらゆることが常に”起きている”中で、「ふーん、そっか。」と流していては何も起きていないのと一緒です。「え、タンポポ咲いてる…!なんでここに咲いてるんだ…?」といちいち新鮮な気持ちで驚く、そんな観測行為があって初めて、それは”偶然”として世界に登場し、世界が持っている”可能性”を示してくれます。

なお、九鬼は「偶然に対して起こる感情が驚き」としていますが、他にも、

  • 必然性に対して起こる感情が「快・不快」。人が「快・不快」を感じていたら、そのきっかけとなっている物事に「望ましい/望ましくない必然性(因果)」を見ているから。

  • 可能性に対して起こる感情が「緊張や不安」。人が緊張や不安を感じているとしたら、そのきっかけとなっている出来事に「望ましい/望ましくない可能性(不確実だがあり得る結果)」を見ているから。

としています。例えば、同じダンスの本番舞台に対して、「絶対ミスる…もう終わりだ…」と思っている人は”落胆”のような不快感情を持っているでしょうし、「ミスったらどうしよう〜(ミスらない可能性もある)」と思っている人は不快感情というより”緊張や不安”を持っていることでしょう。

ここまでを踏まえると、ファシリテーション実践においては以下のような工夫ができます。

  • プロジェクトの中で”起きた”ことに対して、「あー、はいはい、このパターンね」と分かった気にならない。(そんなことありえないけど)仮に過去に経験したことと全く同じデジャヴだとしても、「前と同じ出来事」として向き合うのではなく、まずは「イマココの、この出来事」として驚きを持って向き合う

  • プロジェクトに存在する「不確実要素」や起きた「予想外の出来事」を真っ先に“事故の予感”と捉えて不安になり、すぐ解消しようとしない。「自分達の学習機会」や「プロジェクトの持つ可能性」の探索機会にする

    • そのためにも、ファシリテーター自身は率先して「驚く」という感情(態度)を見せ、ムードを作っていく

  • メンバー内に存在する感情をトリガーに、プロジェクトやその影響に対してそれぞれが見ている景色を整理していく

    • 快・不快(ワクワク、怒り、落胆、etc..)を感じていることは何か?→「これが起きる!」「このプロジェクトの目的や目標」「私の役割」と認識していることは何か?

    • 緊張や不安(ドキドキ)を感じていることは何か?→「これが起きるかも(懸念・ラッキー)」と浮かんでいることは何か?

    • メンバー内にある「見ている景色」にズレがあるとしたら何か?

まとめ


バーッと勢いで書いてしまいました。
今回ご紹介した知見は、自分なりに「創造」と気持ち良く向き合いたい!という、自己肯定が目的化した探究の結果です。
良い意味で自分の「こだわり」であるものの、もちろん「とらわれ」として誤作動することもあるので、そういった実践上のリフレクションはまた今度書いてみようかなと思います。

最後にちょっと宣伝ですが、2022年12月24日(土)のCULTIBASE Labイベントで、「好奇心」をテーマにした会をやります!
今回の「驚く」というキーワードにかなり近いテーマですので、もし少しでも興味を持っていただけた方は、ご参加いただけると嬉しいです!

そして、明日のアドベントカレンダーは、MIMIGURIのCCO(Chief Cultivating Officer)小澤さんです!
こちらも是非〜!


参考文献&おすすめ書籍


今回書かせていただいた内容は、主に以下の書籍を基に、私なりに解釈&紐付けしています。参考までに。

  • 参考書籍

    • クロード・レヴィ=ストロース(1976)『野生の思考』大橋保夫訳, みすず書房

    • 九鬼周造(2011)『偶然と驚きの哲学』書肆心水 ; 増補新版

    • 九鬼周造(2012)『偶然性の問題』岩波書店

    • レイチェル・L.カーソン(1996)『センス・オブ・ワンダー』上遠恵子訳, 新潮社

  • おすすめ書籍

    • 木村資生(1988)『生物進化を考える』岩波新書

    • 中西紹一・松田朋春・紫牟田伸子・宮脇靖典(2006)『ワークショップー偶然をデザインする技術』宣伝会議

    • 橋爪大三郎(1988)『はじめての構造主義』講談社

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