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意味を変えたネックレス


わたしはアクセサリーにあんまり興味がない。
遊びに行く時や人に会う時なんかに服装のバランスをみてつけたりはするけど、家に帰れば秒でもぎ取るように外す有り様だ。
キラキラやジャラジャラをまとった自分がどっか自分らしくなく、しゃらくさいとすら感じてしまう。
そんな非キラキラ人間のわたしではあるけど、それでも365日24時間ずっと身につけているアクセサリーが2つほどある。
1つは指輪で、もう1つはネックレス。
この2つに関しては、基本外すということがない。
装身具というよりは自分にとって特定の意味を持つものだから、むしろ外すと落ち着かないのだ。




常時している指輪というのは、既婚者なのでありきたりに結婚指輪。
これは自分が何を負って誰と生きてるかを思い出させるもので、わたしの現実の象徴だと思っている。
そしてネックレスのほうは、バンタンアーティストメイドのピックネックレスだ。
バンタンの音楽がいつでも自分と共に在るということを思い出させてくれる物で、これはわたしの心の世界の象徴になっている。
今日はこのネックレスの話がしたい。




このネックレスはピックを形取り、バンタンとアミのシンボルマークが表と裏にデザインされている。
中学・高校の6年間部活で弦楽器をやっていたわたしにとって、ピックは元々馴染み深く、懐かしい愛着を感じるアイテムだ。
2022年の1月に、バンタンたちが自らアイデアを出した商品の詳細が発表された時、これはまるでわたしの好みを具現化したようなネックレスだと思った。
しかもこのネックレスを企画したのは、わたしの最愛の推しであるユンギさん。
それはもう絶対に手に入れなければならないし、なんならわたしの手元に来るべき運命のものにすら思えた(そんな思い込みも虚しく一次販売分は瞬殺で消え、約2週間後の2次販売でようやく買わせて頂けたんだがな)。



注文してからネックレスが届くまで半年。
待っている時間も、わくわくと楽しかった。
わたしは最初から、このネックレスが届いたら死ぬまで外さずに、お守りみたいにしてつけ続けると心に決めていてた。
そうやって待ちわびる途中の6月に、例の防弾会食があった。
防弾会食から後は、『あと1ヶ月もすればネックレスが届く』という、商品配送予定自体をお守りにしていたようなところがある。
すべてが不確かで確実なものを求めていたその時期、ガチすぎるわたしは本気ですがるような思いでネックレスの到着を待っていた。



心に決めていた通り、ネックレスは届いたその日以来、ずっと身につけている。
外すのは、サウナに入る時(一度高温サウナでうっかり火傷しそうになってびっくりして懲りた)。
あと、この2年間に2回金具が壊れて修理に出したから、その時くらいか。
余談だけど、修理してくれた職人のお爺さんは、2回目の時に「わたしにとってとても大事なものなので、とにかくよろしく頼む」という話をしたら、わたしの重さに却って職人魂が刺激されたなすったか、受け取りに行った時に「似た色の金具が自分の店の手持ちにはなかったので、職人仲間のところに行って探して譲ってもらい、頑丈かつ違和感ないよう仕上げました」と誇らしげにおっしゃっていたっけ。






何かしんどいことが起こった時には、このバンタン&アミのマークのピックネックレスをぎゅっと握りしめて、力を貰う。
眠れない夜には、寝返りの度に首元でチェーンがシャラシャラと鳴る音を聞いて、自分の心の中にある宝物のような気持ちを思い出して、すこし楽になる。
そしてもちろん、どちらの時もこのネックレスを考え出したユンギさんのことを思う。





でもわたしは、普段はこのネックレスを外から人に見られないように、着ている洋服の襟元内側に入れて、ひっそりつけていた。
自分だけにわかる宝物を隠し持っているみたいな気分を、気に入っていたから。
でも、先週からやめた。
あの詫び状を読んだあと、いつ何時でも服の外に出して、自分の目にも外からの目にも一目瞭然に晒すことにした。 
どうしてなのか、ちょっと自分でもよくわからない。




ユンギさんのいびつさや複雑さにシンパシーを感じて、言葉にならない音楽でしか自分の率直な内面を表すことができない人の危うさを、時に祈るような気持ちで見守ってきた。
そういうことだから、元々ユンギさんに対しても聖人君子的なイメージは失礼ながら特に持ってはいなかったし、達観した人格者として崇めた覚えもない。
グレーな世界でぬるっと楽に生きることを良しとして半世紀のわたしが、何かを作り出す人たちに惹かれる理由は、彼らに感じる〝のっぴきならなさ〟だ。
軽快にスムーズには生きられない人が、あちこちぶつかりながら、それでも目指そうとするのは闇でなく光のさす方。
それがわたしの中のユンギさんのイメージで、それだけで愛するには充分な理由だ。



わたしは想像してしまう。
法規違反行為をしてしまったと聞いて、前後にあったことやそこに至るまでの彼の日々、彼の生きている環境のことを。
もちろん事を起こしたユンギさんのことだけじゃない。
6人のこと。
それぞれの環境や立場のことや、今どんな気持ちでいるか。
想像すればするほど、考え得る限りのありとあらゆる種類の矛盾した考えが浮かぶ。
どこにも寄るべのない思考は、感情という像を結ばない。
頭も心も、スライムみたいにぐにゃぐにゃだ。
そうして感情が形を成さないと、まるでなにも感じてないのと同じような状態になる。
こうなると、なんであれ言葉にして反応できる人がうらやましいくらいだし、生きた人に対する想像力を持たないでいられるってさぞかし楽なんだろうなぁ…とすら思うようにもなる(※今もっとも生き生きとされている野次馬層の方々への皮肉です)。





スライム人間となったわたしがその後にした唯一の建設的な行動といったら、いつもと同じように彼の音楽を聴いて、何か少しでも違って聴こえるのかどうかを確かめてみたことくらいだ。
実証実験の結果、いつもと同じところで、くー!やっぱり最高だなぁ!と感じたりして、特に変わった聴こえ方はしなかった。
他人の心は他人のものだから知らない。
ただ、わたしはわたし自身に証明できた。
好きな音楽から受ける感覚は何があっても濁ることがないっていう事実は、自分がこれまで信じていた通りだった。




わたしの心臓のそばで揺れてるこのピックのネックレスは、この2年間、バンタンの音楽が自分と共に在るという象徴だった。
お守りであり、慰めだった。
でも今は、わたしが正真正銘7人を愛するアミであり、生粋のユンギペンだという宣言に変わったんだと思う。
思うっていうか、4日前に自分でそう意味を変えたのだ。
よくわかっていなかったけど、ここまで思いつくまま書いてて、そのことに気付かされた。
無理やりにでも書き出してみてよかった。



宣言だから、文言を添えようかな。
わたしが一番最初に心を動かされた彼らの楽曲、『ON』の歌詞の欠片。

【Bring the pain】

一緒に殴られてやるから、その痛み、おばちゃんのとこに持っといで。
良い時だけ共に在ろうとは思えないくらいに、わたしは7人を愛している。



そうしてこのネックレスは、わたしの人生を表すものとして、いずれ結婚指輪と共にわたしのお墓に入る予定だ。







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