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「別れ」と「縁」について
人は皆、人とのつながりを「縁」という言葉で説明する。
そして目に見えるものではないにもかかわらず、多くの人が縁は「糸」のようなものだというのはなんだか面白い。
一方で私が愛読する『ブルーピリオド』の主人公、矢口八虎は縁を「金属」のようなものだと例えた。糸のように細く繊細なものもあれば、刃のように鋭く研ぎ澄まされ、人を傷つけてしまうものもある。熱を持てば形を変え、その熱は他の金属の形を変えることもある。
最近の私は「別れ」との距離が少し近かった。私と直接関係があるものはないけれど、同僚やそれこそnoteでフォローさせていただいている方の別れを知る機会が多かった。そういった別れと袖を振り合わせる度に整理しきれない、ある別れ、死のことを考えてしまう。
本当に縁が糸のようなものだとするならば、その縁はどこまで続いているのだろう。もし現世と天国の間に扉があるのであれば、その扉を超えてつながっているのだろうか。
心と脳にまたがって私の片隅に置かれているこの別れについて、答えが出ないことはわかっているけれども、言葉にしてみたいと思う。
彼との出会いは約10年前、確か私が大学2年生の時だった。
演劇部に所属していた私は、卒業公演で脚本・演出として自身の作品を上演することを目標にし、自身の内面や過去作品を掘り下げていったり、様々な作品を見ることを通じてクオリティを上げようとしていた。その一方で自分の殻を破れないというか、自分の想像を超える作品を作ることはできないのではないかという、漠然とした恐れが自分の影を踏んでいるような感覚に追われていた。
そんな時に先輩からとある劇団の演出助手として参加しないかと声をかけてもらった。先輩も演出・脚本の勉強として参加し、数年間その劇団の演出助手として参加していたが、就職活動の兼ね合いもあり参加が厳しくなってきていた。そんな中同じく脚本・演出として作品作りをしていた私に2代目として声がかかった。その劇団の主宰として作・演出を務めていたのが、「彼」だった。
彼の作品は重厚なドラマと圧倒的なユーモアをもって観客を舞台上に引きずり込むような力強さがある。ナンセンスなユーモアで大きく口をあけて笑ってしまうこともあれば、思いっきり歯を食いしばらずにはいられないような悲しみもあって、感動からかおかしさからかわからなくなるくらい心がかき回されて、いつも泣いてしまっていた。
観客としてお芝居を見ているときにはそのクオリティの源泉は「才能」にあると思っていたが、作品作りに携わらせていただけるようになってからはその考えは一変した。私が才能だと思っていたものは「センス×ロジック×人(ニン)」の結晶だった。
センスは膨大なインプットとアウトプットの試行錯誤の末に磨かれるものであって決して生来のものではないし、ロジックは様々な作品作りをするうえで身に着けた技法やノウハウによるもの。彼の脚本や演出術はロジカルで、誰に何を聞かれても理路整然と説明していたのがとても印象的だった。
彼を想うにあたって欠かせないのが「人(ニン)」の部分だと思う。決してそんなことはないと思うが、仮に人が後天的に獲得できない能力があるとするのであれば、それは「人(ニン)」だったのだと思う。
彼の顔を思い浮かべる際に一番最初に出てくるのは笑っている顔。
微笑んでいるとかではなく、思いっきり笑っている顔だ。稽古中も出てきたアイデアをみんなで試していく中で誰よりも笑っていたのが印象的だった。
その次に浮かんでいるのはとても真剣な顔。
その目線は体を突き抜けて、心まで貫通するのではないかというくらい鋭かった。面白いものを作ることと、面白さを伝えること、面白いものが売れること。後者に行くにつれて感性よりも論理の占める領域が大きくなることを理解していて、そのことを真摯に突き詰めている人だった。
思いついたことを何でも試して、誰よりも早く、誰よりも大きな声で笑う姿は漫画の主人公のようだった。
私は彼の作品作りに2度携わらせていただいた。その後は卒業制作や自身の作品作りに専念するためにスタッフとして関わらせていただくことはなくなった。そうしている間に映画やドラマの脚本をご担当されたりと、演劇以外のフィールドでもご活躍されるようになって、今でもそんなすごい人の作品作りに少し携わることができたのは一生の自慢だと思っている。
そうして大学を卒業し社会人になったが、劇団の一人のファンとして毎回楽しみに劇場に足を運んでいた。新卒で入った制作会社でADをやっているころは、毎日のように「死ね」や「殺す」などといわれていたが、そんな地獄の環境を生き延びることができたのも、次の作品が楽しみでしょうがないというガソリンがあったからだ。
数年前の春、彼の訃報をSNSで知った。
その日、私は家にいて、ベッドに寄りかかってSNSを見ていた。ニュースサイトの速報を告げる投稿に彼の名前があって。そこにはカッコ書きで「訃報」の文字。その2文字を見たときに「死んでしまったんだな」と思ったけれど、不思議と悲しくはなかった。もちろんとても驚いたし、ショックは受けたけれど、ただただ亡くなってしまったという事実を知ったという以上でも以下でもなかった。
ちょっと時間がたって夕飯の買い出しに行かなくてはいけないと思い、スーパーに買い出しへ向かった。晩御飯の献立は決めていて、大好きなキャベツのお味噌汁を作ろうと思っていた。野菜コーナーでキャベツを手に取った時、堰を切ったように感情があふれて、涙が止まらなくなった。そこからのことは覚えていない。
その後、彼が主宰を務めていた劇団はお休み期間に入り、少し経ってから活動を再開した。その時の公演も観に行かせていただいたが、彼がいないことを感じさせない仕上がりでそれが嬉しくもあり、悲しくもあった。
私にも彼との特別な思い出がある。私の大学生活の後半は演劇活動に力を入れていたので、卒業課題を演劇関係者のインタビューを行うことにした。そのインタビュー対象の一人として、彼とお話の時間をいただいたのだ。そして、その時の彼の言葉が忘れられない。
「自分は最近色々なお仕事を頂けて、脚本家として食えるようになってきたけれど、自分だけ好きなことだけで食べれるようになるんじゃなくて、みんなも同じようにお芝居で食べられるようにしたい。劇団は永遠に続くものではなくて、終わりが来るものだと思うから。」
彼が亡くなってから、彼のことを考えるたびに頭が締め付けられて、涙が絞り出される。それは今でも変わらない。
そして彼が亡くなってすぐの時は、彼のことを取材した時の音源やインタビュー冊子を劇団員の方にお渡ししたほうがいいのではないかと、かなり悩んだ。
私は作品作りに携わらせていただいたのはたった2回で、その後はお芝居を見に行った際にご挨拶させていただくような関係。客観的に見たときにそこまで親しい仲だったかといわれると、決してそんなことはないと思う。
それなのに、どうして彼のことを考えると涙が出てしまうんだろう。
彼の劇団はまだ続いていて、また新たな公演があり、それをすごく楽しみにしている。そして私の後輩のそのまた後輩が今でも劇団のお手伝いをさせていただいている。
劇団はいつかはなくなってしまうと言っていたが、まだまだ続いている。
私はお芝居を作るときにテーマ性をかなり重視していた。自分が悩んでいること、漠然と考えていることを「問い」として提示し、自分なりの答えを作品作りを通して提示するスタイルだった。大学を卒業してから0から作品を作ることはなくなってしまって、それは人に問いかけたいほどの問いがなかったからだった。でも彼がなくなってからの数年は「縁」についてずっと考えていて、もし次に作品を作るとしたら、テーマは「縁」にすると決めている。
「死者と生者に縁はあるのか。」
その答えはいまだにつかめていないし、私にとっての「縁」がどういった形をしているのか、それすらもわかっていない。
それでも時折考えるのだと思う。答えが出ても出なくても。