『バテン・カイトス』における「観点」の問題
「ゲーム」の登場人物たちは、私たち=プレイヤーとは異なる観点をもつ。その観点からはおそらく、自らの世界(ゲーム内世界)について、地の文で語ることができる。そうであれば、自らの世界について、語らないことさえできるだろう。
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プレイヤーは、「ゲーム」に対する神なのだろうか。神のような観点に立つのだろうか。
たしかに、プレイヤーは「ゲーム」を創造するわけではない*。しかしながら、プレイヤーは、「ゲーム」の世界を(画面上に)出現させることも消し去ることもできる。「ゲーム」を(物理的に)壊すこともできる。
この点で、プレイヤーは、「ゲーム」の外部に位置している。「ゲーム」をすることもしないこともできる。それこそ、神が世界を創造することもしないこともできるように、である。
そのうえ、プレイヤーは「ゲーム」をプレイするときでさえ、プレイヤーとして他の登場人物とは異なる位置に身を置き、「ゲーム」の世界を「俯瞰」**できるように思われる。まさに、プレイヤーは特権的な観点に立つようである。
もちろん、「ムジュラ」にかんして論じたように、プレイヤーが主人公を通じて、「ゲーム」内の登場人物たちと同じ観点に立つことはある。
そして、逆に、主人公たちが、プレイヤーに対して特権的な観点に立つこともあるように思われる。
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「ゲーム」には「秘密」がある。
プレイヤーは「ゲーム」を進める中で、物語上の「謎」につきあたることがある。また、ギミックとしての「謎」につきあたることもある。プレイヤーは、そうした「謎」につきあたるとき、「謎解き」に取り組む。というよりも、「謎解き」へと差し向けられている。言うまでもなく、「謎解き」は、「ゲーム」をプレイする醍醐味のひとつである。
しかし、「ゲーム」には「秘密」があることもある。つまり、プレイヤーには示されない「何か」がある。プレイできる範囲では示されないがゆえに、プレイヤーには意識されることすらない「何か」がある。そして、プレイヤーではなく、「ゲーム」内部の登場人物だけが、その「何か」を知っていることがある。
「ゲーム」には「秘密」がある。「ゲーム」の中の登場人物が「秘密」をもっていることもある。
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『バテン・カイトス』(ナムコ、2003年)は、ニンテンドーゲームキューブ用に発売されたタイトルであり、ジャンルはRPGである。コピーは「すべての命は海へと還る」。
ゲームキューブでは、RPGに分類されるソフトが多くなく、その数少ないソフトの中でも『バテン・カイトス』は出色である(売上本数はゲームキューブの完全新作タイトルとして、『ピクミン』、『動物番長』に次ぐ第三位)。「マグナス」と言われるカードを用いる戦闘システムで、独特のカードバトルは戦略性が高く、またコレクションの要素もあり、完成度は高い。
世界観も作り込まれており、ビジュアル、キャラクターデザイン、音楽(桜庭統)、シナリオなど、どこを取っても屈指の出来である。2023年2月のニンテンドーダイレクトにて、続編である『バテン・カイトスⅡ 始まりの翼と神々の嗣子』を併録するHDリマスター版の発売が発表された。
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『バテン・カイトス』の主人公は「カラス」という少年で、ある復讐のために旅をしている。その道中で、「シェラ」をはじめとした登場人物たちと出会い、次第にアルファルド帝国の野望に巻き込まれることになる。
ところで、主人公はカラスであるが、プレイヤーはカラスではない。カラスは「精霊憑き」なる珍しい人物であるのだが、プレイヤーは、カラスに憑いた「精霊」として、「ゲーム」の世界に入り込むのである。
プレイヤーはゲーム内ではカラスを操作するのだが、要所要所でカラスは精霊=プレイヤーに語りかける。カラス以外の登場人物も、精霊=プレイヤーに語りかける(が、「精霊憑き」にしか精霊=プレイヤーは認識できず、直接的に精霊=プレイヤーとコミュニケーションが取れるのは基本的にカラスだけであるし、逆もまた然りである)。要するに、カラスは、プレイヤー=精霊が世界に場所をもつための観点であると同時に、精霊=プレイヤーではない登場人物として自立してもいるのだ。
カラスがプレイヤー=精霊ではなく、自立していることは、カラスの人格からもよくわかる。カラスは強い復讐心を行動原理にしており、いささかひねくれた、打算的な性格をしている。そのため、進んで人助けをすることがない。プレイヤーは、人助けや、帝国を打ち倒すこと、世界を救うことを目的に「ゲーム」をするわけだが、カラスはそうではない。もちろん、復讐を果たすという目的はおおよそ一致するし、だからこそ、物語は進行するわけだが、カラスと精霊=プレイヤーの行動原理にはズレがあり、度々、プレイヤーはそのことを意識させられる。
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物語の後半、カラスは突然仲間たちを裏切る。カラスが裏切りを計画していたことは、仲間たちはもちろん、精霊=プレイヤーにも事前に知らされていない。それもそのはずである。「ゲーム」が始まる以前に、この裏切りは計画されていたからである。そのため、相当に勘のよいプレイヤーでなければ、この裏切りには面食らうことだろう。
経緯はこうである。カラスは、そもそもプレイヤーがゲームを開始するから精霊を相棒にしていたのだが、精霊が復讐を果たすためのある計画に反対したため、来るべき「裏切り」の瞬間まではその力を利用するために、精霊を気絶させ記憶喪失させた。そして、そのあとにゲームがはじまり、プレイヤーは精霊として世界に入ってくる、というわけである。
要するに、叙述トリックがしかけられているわけである***。
「ゲーム」は、プレイヤーがプレイを開始したときから始まる。そして「ゲーム」が始まるときに、ゲームの世界も動き始める。こうした前提があるからこそ、『バテン・カイトス』の叙述トリックは機能する。
裏を返せば、『バテン・カイトス』というゲームの世界は、プレイヤーが「ゲーム」に入り込む以前から、動き始めている。そして、ゲームの中の登場人物たちも、プレイヤーが「ゲーム」に入り込む以前から、ゲームの世界を生きている。「ゲーム」はプレイヤーを待たない。そしてーーこの点で『バテン・カイトス』のエンディングは示唆的なのだがーー、プレイヤーが「ゲーム」を離れた後にも、ゲーム内の登場人物たちは世界を生き続ける。
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カラスは、はじめから裏切りを計画している。だが、それは解かれるべき「謎」として、「ゲーム」に折り込まれているのではない。そうではなく、主人公であるカラスが、精霊=プレイヤーに暴露するそのときまで隠しておくべき「秘密」として折り込まれている****。
カラスは、この「秘密」を明かしてしまうわけだが、「秘密」は必ずしも明かされるべきものではない。プレイヤーが「ゲーム」を「クリア」しても、その存在すら仄めかされない「秘密」があっても構わない。残念ながらここでは例示できないが、そのような「ゲーム」は十分に可能である。
「ゲーム」の登場人物たちだけが知りうるゲーム内の出来事、それは、私たちプレイヤーには「秘密」として現れ、ときには「秘密」として認識されることすらない。そのような出来事は、「ゲーム」を(地の文の)ゲーム=世界として生きることのできる登場人物だけが、見聞きすることができる*****。そして、登場人物たちだけが、その出来事=「秘密」を、私たち=プレイヤーに「暴露」することができる。プレイヤー=私たちの観点からは知り得ないこと、語り得ないことが、登場人物たちの観点からは語られうるのである。
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注
* この点で、「ゲーム」開発者の位置について考慮する必要がある。開発者こそが、「ゲーム」をプログラミングしたものであり、「ゲーム」に対して特権的な位置をもつと考えられるからである。
とはいえ、プログラミングは、神の創造になぞらえられるものではないだろう。「ゲーム」のプログラミングは「無からの創造(Creatio ex nihilo)」ではないからである。とはいえ、考えるべき点は多い。一度完成した「ゲーム」を新たにプログラミングすることは、「奇跡」のようなものなのだろうか。かりに「作者の死」に基づいて「ゲーム」を「作品」とみなすとしても、この問題は考察に値するだろう。
ここで詳細に検討することはできないが、この点で、『RPGツクール』シリーズや『スーパーマリオメーカー』シリーズ、『Nintendo Labo』、そして『ナビつき!つくってわかる はじめてゲームプログラミング』などは、きわめて興味深いゲームである(とりわけ、あとの二つは「プログラミング/プレイ」の境界を撹乱する点で重要である)。
これらの「ゲーム」はたしかに「プログラミング」されたものであるが、プレイヤーが「プログラミング」することを前提にしている。ここでは、「プログラミング」と「プレイ」の境界は(かりに部分的にであれ)無化されている。
こうした点に鑑みれば、プログラマー/プレイヤーは、どちらも「ゲーム」に対して(相対的に)外的な観点を取るが、両者に絶対的な差異はないと言えるだろう。
また、システムデータそのものに操作を加えることが進行上必要になる点で、『ドキドキ文芸部』は特異的である。「ゲーム」を、そしてゲームという世界を、文字通り「消去」することが、「ゲーム」のなかに折り込まれているのである。その操作は、「ゲームすること」である点で「ゲーム」に織り込まれながらも、「ゲーム」とゲームの世界を「消去」する点で、(「ゲーム」に対しての)外部世界に織り込まれている。「ゲーム」の「内部/外部」に同時に属する操作であり、「外部/内部」の境界を曖昧にする操作である。こうした点については、あらためて論じる。
** レモン・リュイエルの『新目的論』で論じられる「俯瞰(survol)」にしたがえば、「ゲーム」そのものも俯瞰していると言えないだろうか。
*** この点で、小説における叙述トリックとの比較が必要になるだろう。小説という媒体に対するゲームの特徴としては、インタラクション性やマルチエンディング性ーー物語の分岐・発散は小説でも可能ではあるだろうがーーなどが挙げられるであろうし、これらをもとに比較することは可能だろうが、私の手には余る問題であるため、いずれ考えることにしたい。
**** 近年発売された『Twelve Minutes』(2021)は、最後まで「秘密」を明かさない秀逸な例であるだろう。本作はマルチエンドだが、いわゆる「真END」は(少なくとも明示的には)設定されておらず、その物語の顛末、その真相は「秘密」のままに残される。また、本ゲームでは、初起動時でもメニュー画面の表記は(New Game)ではなく「Continue」となっており、プレイヤーを待たずにゲームは始まっていることを強く示唆しており、本稿にとって重要な位置にある。
***** 『ファイアーエムブレム:風花雪月』(任天堂、2019年)では、仲間を食事に誘うことができるのだが、各キャラクターごとに好き嫌いが設定されており、メニューごとにさまざまなコメントをしてくれる。そのなかでも、ドロテアというキャラクターは、興味深いことに、「これ、たぶん好きだったような…」と述べる。ドロテアがなぜこのように語るのか、その理由は明示されないため、少なくないプレイヤーにとっては要領を得ない発言に聞こえるものである。だが、この発言は「ゲーム」上の「本筋」に関わることもないし、ドロテアに隠す意図がないことも相まって、「謎」にも「秘密」にもなることがない。それゆえに(かえって)、この発言は、ドロテアが「ゲーム」をゲームの世界として地の文で語っているように、私たちには思えるーーこのようなディティールについては、三島由紀夫による有名な柳田の論評や、語りの問題とともにいずれ考察したい。なお、この背景には、(いわゆるパトロンとの会食が中心であったため)ドロテアが食事を食事として楽しんだ経験に乏しいという「事実」があると考えられる。この点にかんしては、「湖底より愛とかこめて」(https://www.homeshika.work/entry/2019/11/14/171606#ドロテアくんの好き嫌い)に詳しく、この他の記事も含めて学ぶところが多いので参照されたい。