『ゼルダの伝説:ムジュラの仮面』における「観点」の問題

 おそらく、「ゲーム」と「現実」には、両者が区別できなくなる瞬間・地点がある。そして、そのような瞬間・地点は「内在」と呼ばれるだろう。
 「ゲーム」と「現実」が区別できなくなるとき、私たちが身を置く「観点」は、どうなっているのだろうか。


 『ゼルダの伝説:ムジュラの仮面』(任天堂、2000年、以下『ムジュラ』と表記する)は、『ゼルダの伝説:時のオカリナ』(任天堂、1998年)の続編として製作された、Nintendo 64のタイトルである。コピーは「こんどのゼルダはこわさがある」

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 『ムジュラ』は、そのコピーの通り、やたらと「こわ」かった。よく語り草になることだが、当時放映されていたCMは、その「こわさ」を最大限にねらった演出だったし、実際に遊んだときにも緊張感「こわさ」があった。まさにコピーの通りだったわけである。
 『ムジュラ』の「こわさ」は、まずはなんといっても、月の落下が(文字通り)目前に迫ってくるところにある。落ちてくる月のビジュアルはもちろんそうなのだが、町の住人たちが段々と焦燥感に駆られていく様子が妙にリアルで、「こわい」のだ。陽気な音楽が流れ、活気に溢れていた町並みが、段々と悲壮感や諦観の雰囲気に変わっていくのだから、プレイヤーの方も否応なくそういう気分になってしまう。「最初の朝」、喧騒に溢れる町並み、「次の日の朝」、町を離れるひとびと、町にとどまるひとびと、「最期の夜」、落ちる月。

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 このように感じるのは、おそらく、『ムジュラ』の世界では時間が不可逆的に――それもプレイヤー=リンクの操作とは無関係に――流れるからだろう。
 プレイヤー=リンクは、クロックタウンに迷いこんでからの三日間を旅するわけだが、そのうち同じ日は一日もないし、プレイヤー=リンクが操作をしなくても崩壊の瞬間に向けて時間は流れ続け、さまざまな場所でさまざまなイベントが発生したり消滅したりする。「私たち」が身を置くゲーム外の「現実」のように、『ムジュラ』の「世界」でも時間は流れていく。
 この時間の流れのなかで、『ムジュラ』の登場人物たちは、プレイヤー=リンクの操作とは無関係に、ひとりひとりがそれぞれの三日間を過ごしている。『ムジュラ』の世界のひとびとは、「現実」のひとびとのように、プレイヤーの意志とは関係なく、それぞれの時間を生きている。NPCであるにもかかわらず、あるいはNPCであるからこそ、その世界での日々を営んでいるのである。ここに、ある種のリアリティがある。そのようなリアルさをもって生きている『ムジュラ』のひとびとが段々と焦燥感に駆られ、恐怖するからこそ、同じ『ムジュラ』の世界に身を置くプレイヤー=リンクも「こわさ」を覚えるのである。
 要するに、プレイヤーは、不可逆的で干渉不可能な時間を生きるという点で、ゲーム外の「現実」に観点をもつように、『ムジュラ』の世界に観点をもつ。それゆえに、プレイヤーは、リンクがクロックタウンに迷い込むように、『ムジュラ』の世界に迷い込むのである。
 そのとき、プレイヤーの観点はゲーム内のリンクの観点と一致している。

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 しかし、プレイヤー=リンクは、「時のオカリナ」を取り戻すことで、時間を遡ることができるようになる。いつでも好きなタイミングで、「最初の朝」に戻れるようになる。プレイヤー=リンクは、それ以前のようには、『ムジュラ』の世界に流れる時間を生きることができなくなる*。
 それ以降、プレイヤー=リンクは、はじめのように、「こわさ」を感じることがなくなる。それは単に、月の落下を回避できるようになったからではなく、登場人物たちが、「現実」のひとびとのようには生きていないと気づくからである。
 たとえば、プレイヤー=リンクは時間を繰り返し遡るなかで、「はじめの朝」には必ず手紙を投函する子どもの姿に気づくだろう。そのとき、プレイヤー=リンクは、「三日間」が同じ「三日間」であることに気づき、登場人物が繰り返し同じ「三日間」を生きていることに気づく。そしてプレイヤーは、『ムジュラ』の世界の登場人物があらかじめ書き込まれたーー文字通りプログラムされたーー時間を生きているだけであると思い至る。『ムジュラ』のひとびとが笑ったり怒ったり悲しんだり困ったり怯えたり恐怖したり愛したりするのは、あくまでも機械的なことでしかなく、「現実」のひとびととはやはり違うのだと、思い至るのである**。
 このとき、プレイヤー=リンクは、はじめてクロックタウンに迷い込んだときのようにはクロックタウンを見てはいない。プレイヤーは、『ムジュラ』の世界と時間を超越したところに身を置き、そのゲーム外の「現実」から、あくまでもプレイヤーとしてクロックタウンを眺める。
 それと同様に、リンクは、「三日間」を繰り返し旅するものとして、クロックタウンに身を置くことになる。プレイヤーと同様に、リンクもまた、クロックタウンのひとびとと同じ時間を生きることがなくなるのである。
 今度はリンクの観点が、ゲーム外のプレイヤーの観点に一致するというわけである***。

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 リンクは、はじめは、クロックタウンの住人と同じ時間を生きている。リンクが動いても動かなくても、不可逆的に時間は流れ、どうしようもなく月は落下してしまう。リンクは、クロックタウンの住人と同じように、一回限りのものとして、最後の三日間を生きる。そして、プレイヤーはリンクという観点を通じてクロックタウンに身を置くため、クロックタウンの住人たちと同じように、一回限りものとして、最後の三日間を生きる。
 しかし、「時のオカリナ」を入手することで、リンクは時間を遡れるようになる。それ以降、リンクは、クロックタウンの住人とは同じようには、三日間を生きることがなくなる。リンクは、クロックタウンの住人を登場人物として眺めることのできる特権的な存在者になる。このことは、プレイヤーがリンクを通じて特権的な観点を獲得することを意味している。つまり、あくまでも「ゲーム」の内側の時間・世界として、『ムジュラ』を遊べるようになるのである。
 事態は二重である。リンクは『ムジュラ』の最後の「三日間」を繰り返される「三日間」として生きるようになり、プレイヤーにとって、『ムジュラ』の時間は「現実的」なものから「ゲーム」的なものになる。
 この転換点となる瞬間に、『ムジュラ』の世界は「ゲーム」になるわけである。

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 『ムジュラ』は「ゲーム」であるが、はじめてその世界に「こわさ」を感じたとき、そこでの時間は「現実」の時間と一体になって流れていたし、クロックタウンのひとびとは生きていた。その「こわさ」がなくなったとき、「ゲーム」と「現実」の時間は分かれ、クロックタウンのひとびとは、単なるNPCとして認識される。そのときには、「ゲーム」をプレイしているわけである。
 『ムジュラ』を通じて体験されたのは、このようなリアルさである。そして、そのリアルな体験のなかには、クロックタウンのなかで、他のひとびとと共に生きたという実感が含まれている。はじめて『ムジュラ』をプレイしたときに漠然と感じていたことであるが、今はそう理解している。
 こういった体験があって、「ゲーム」には特有のリアルさがあると考えている。「現実」を生きるように「ゲーム」のなかを生きることができる。というよりも、「ゲーム」と「現実」の境界線が曖昧になったりする瞬間があると考えている。そして、そのような瞬間を求めて、「ゲーム」を遊んだりしているように思えてならない。冒頭の話に立ち返れば、そのような瞬間に「内在」と呼ぶしかないなにかがあるはずである。
 こうした経緯があって、私は、プレイヤーが「ゲーム」をどう体験するのかに関心をもっている。とくに、『ムジュラ』がある種の原体験になっているから、プレイヤーにとって「主人公」がどんな存在者なのかに関心がある。少なくない「ゲーム」では、プレイヤーは主人公を通じてゲームの世界に身を置くからだ。主人公は、プレイヤーがゲームに身を置くための「観点」であり、ゲームの世界を眺めるための「窓」である。そして、「現実」と「ゲーム」の境界線が曖昧になり、現実とゲームが地続きになり、両者が「内在」としか呼べなくなるのなら、プレイヤーの方が、主人公にとっての「窓」になるのではないだろうか。あらかじめ書いておけば、『ドキドキ文芸部』や『グノーシア』は、そういった「ゲーム」だろう。


* それでは、『ムジュラ』に「時のオカリナ」がなかったとしたらどうだろうか。ひとりのプレイヤー=リンクは、時間を遡ることはできず、一度月が落ち世界が崩壊したならば、それ以降、いかなる意味でもやり直すことができないとすれば、それは「人生」のようだと言えるだろうか。このとき、複数のRomが存在することはあまり問題ではないように思われる。ひとりひとりのプレイヤーは、さまざまな仕方で同じクロックタウンを旅するだろうが、それはひとりひとりが、さまざまな仕方で同じ「現実」を生きることとどれだけの違いがあるのだろうか。
** しかしながら、どうしてわれわれがそのようにプログラムされていないと言い切れるのか。たとえばライプニッツを参照して、われわれも、クロックタウンの住人も、自らが内包する出来事を順番に展開しているだけだと考えることはできないのだろうか。
*** この点で、リンクは、『ムジュラ』に特異な仕方で内在しているように思える。リンクは『ムジュラ』の外部に出てくることはないが、かといって、他の登場人物たちのように『ムジュラ』の内部にいるわけではない。プレイヤーが身を置く『ムジュラ』の外部と接点をもつのだから。こうしたリンクのあり方と、それに連関したプレイヤーのあり方については、まだよくわかっていない。けれども、『ゼルダの伝説:夢幻の砂時計』(2007年)でのあるギミックには、こうした「内在」のあり方を考える糸口があるように思われる。また、『ムジュラ』でのリンクは、さまざまなひとびとを出会わせたりする役割をになっており、その点では、ジル・ドゥルーズの『意味の論理学』(1969年)でいう「偶然的な点」に接近しているように思える(第八セリーでの「構造」の定義などを参照されたい)。

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