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今、「多様性」をどう見るか

揺れる多様性

2025年、「多様性」が揺れています。

トランプ政権は、発足したやいなや、まるで待ちきれなかった子どものように多様性政策の撤廃を打ち出しました。この動きに先回りして、メタやアマゾンなどのテック企業も多様性への取り組みを後退させています。米マクドナルドも、DE&I(多様性、公平性、包摂性)のアプローチを見直し、多様性に関する目標設定を取り下げました。また、同社に設置された多様性チームを「グローバル・インクルージョン・チーム」と改称しました。これは、「包括性にはコミットするが、多様性・公平性は今一度冷静に見直そう」という意図に読みとれてしまいます。

このような動きをもって、「多様性は終わりだ」と脊髄反射的に反応するのは拙速でしょう。人類が多様性を受け入れていくための一時的な「揺り戻し」と見ることもできます。行き過ぎたポリコレにうんざりし始めた世論のあらわれなのか、足かせなく利益追求を推し進めたい企業の合理的な判断なのか、いずれにしても2025年は多様性への揺り戻しと、分断の兆しから始まりました。

さて、日本の企業はどうでしょうか。ここは、こうしたトレンドに右往左往するのではなく、対応すべきグローバル・ルールとして受け入れていたDE&Iの本質的な意味を、腰を据えてじっくりと考えてみる機会にしてはいかがでしょうか。

多様性をめぐる争点

企業を取り巻く多様性の捉え方は、大きく二つの方向性に分かれているように見えます。

一つは、能力主義、成果主義的に則った多様性という捉え方。性別や人種、出身などのバイアスをなくし、公平な条件下で能力や成果を評価して人事を決めよう。その結果として多様性が実現されればよい、という見方です。この場合、多様性の確保は達成すべき目的ではなく、あくまで結果的に実現される状態ですね。逆に言えば、能力無視で多様性を優先するのは違うだろうという意見です。

ただし、この考え方には落とし穴があります。まず「現状の偏った環境の下で、公平な能力評価ができるのか」という問題。さらに、「そもそも完全に公平な評価軸なんてあるの?」という疑問も残ります。そして、企業として最終的に発揮したいのは、個々人の能力よりも、組織の総合的能力であるはず。「全体は部分の総和に勝る」。そういった創発的なシステムとしての組織づくりが、今求められているはずです。偏った能力評価で選ばれた、エリートばかりの銀河系軍団が強いとは限らないのです。

二つめは、多様性の確保そのものを優れた組織づくりの必要条件とみなす考え方です。多様性の確保は、組織全体が偏ったバイアスに陥ることを防ぎます。それは、昨今のジャニーズやフジテレビの問題を見ても明らかですよね。もちろんイノベーションを起こすには、多様な要素をかけあわせた新結合の発見が欠かせない。多様性は結果的に達成されるものではなく、組織に備わっているべき必須要件なのです。

こうした背景が一つとなり、近年「アファーマティブ・アクション」と呼ばれる積極的な格差是正措置が取られました。それに沿って、採用や昇進などに性別や人種別、出身別の数値目標が置かれてきました。ただし、こうした措置には「公平性に反するのでは」、「逆差別になるのでは」という反論もありますね。記憶に新しいところでは、2023年、米連邦最高裁は、人種を考慮した入学選考は違憲であるとの判断を下しました。

この二つが、多様性をめぐる争点としてせめぎ合っています。

生物多様性から組織を見る

生物多様性の観点から、今後の組織のあり方を考えてみるとどうでしょうか。自然界では、多様な種が異なる役割を果たしながら、相補的な関係を築いています。さらにそこには、自然選択による淘汰が健全に機能しています。

生物多様性のベースとなる進化論は、誤解されていることが多いです。まず「進化は目的を持つプロセスだ」という誤解。キリンは高いところにある餌を取るために、首を長く進化させたのではありません。たまたまランダムな変異と自然選択によって首の長い生物が出現し、そいつらがたまたま生き残っただけです。「最強の個体が生き残る」というのも誤解です。最強とは何を指すかは、環境に依存します。「進化は常に進歩的である」のも誤解ですね。進化は単に環境に適応した変化を示すものであり、よりよくなっていくことではありません。要するに「たまたま」が重なった結果なのです。進化論をアナロジーに社会や組織のあり方を語る時、これらの誤解が生じやすいのです。

この「たまたま」起こる変化を受容し、持続的に創発を生み出す環境をつくるために必要なのが、「多様性」と「選択圧」になります。多様性は偶発的な変化が起こる確率を上げます。選択圧は、偶発的に起きた変化から、環境に適応するものを絶えず選び続けます。人為的にそういった環境をつくろうとした時に間違えてはいけないのが、必ず「多様性⇒選択圧」の順番にすることです。最初に選択圧を上げてしまうと、多様性が高くなりえません。多くの人が誤解してしまうのが、能力や成果による選択圧を上げた結果、変化に適応した強い種が残るだろうというものです。それは結果的に同質性を上げることになり、一時的に生産性は上がっても、環境そのものの豊かさは失われていくでしょう。

ただ、組織を生物多様性の視点から見る方法は、どこか心にモヤッとしたものを残します。それは、多様性を確保して選択圧を上げた時に淘汰されるのは、中にいる人間であることに思い至るからです。一人ひとりには顔があり、想いがあり、生活があります。水槽に棲む魚のようには見れません。そして人間というのは、得てして同質性の高い仲間のほうがかわいく見えるものです。神の視点から組織をつくれるほど、ドライにはなれないのです。

組織に出入りする情報の多様性

そこで、別の視点を持ち出してみましょう。多様性と選択圧の対象を組織に出入りする「情報」に向けてみるのです。

組織とは、パーツを寄せ集めたマシンシステムではなく、人間同士をつなぐ複雑系のネットワーク・システムです。ネットワークが複雑に交差し、そこに多様な情報が流れる時に「創発」という現象が起きます。つまり、組織をネットワークとみなし、多様な情報が出入りするようにすることで、創発性を高めることができるのではないでしょうか。

これは人間がつくる組織に限らず、脳のしくみでもあり、昨今のAI開発でも確認されていることです。脳に例えるなら、人はシナプスにあたります。脳の機能は、電気信号を発して情報をやりとりする神経細胞のネットワークによって成り立っています。シナプスは、脳神経細胞同士がつながる接続点です。人がシナプスの役割を果たし、多様なインプットを外部からネットワーク内に持ち込み、多様なアウトプットをネットワークの中で生み出していく。その結果生じた多様なネットワークのふるまいが、選択圧によって生まれては消えを繰り返していく。そんな組織像が浮かび上がってきました。

「多様なわたし」という考え方

ここで疑念が湧いた人もいるのではないでしょうか。情報を持ち運ぶのは、結局人ではないか。やはり選択圧の対象になるのは、人ではないかと。

そこで、もう一つ新しい見方を持ち出してみましょう。人を分割不可能な一貫した個として見るのではなく、多面的な側面を持つ分身的な存在として見るというものです。つまり、「わたし」のなかに多様性をつくるのです。

これは、作家の平野啓一郎氏が唱えた「個人から分人へ」という考え方と重なります。人は、対人関係ごと、環境ごとに分化した異なる人格を持ち、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えるものです。

加えて、社会学者の池上英子氏が唱えた「創発するアバター」。これは、自己とはそもそも相互依存的かつ経路依存的なものであり、人は多様なネットワーク上で他者と交わることで、刻々とわたしの分身を生じさせているという見方です。

組織の中でインーアウトされる情報の多様性。そしてその情報を媒介する個人の内なる多様性。この二つの側面から多様性を捉えることこそ、創発を持続的に起こす組織づくりの可能性を開くのではないでしょうか。個人が「多様なわたし」を持って集まり、情報のインとアウトを自在に扱っていく。情報を多義的なものとしてみる。意味やイメージを自由に生み出せるものとして捉える。こうした捉え方は、なるべく解釈のブレやズレをなくそうとする現代の組織とは、情報の扱い方に大きな隔たりがあります。しかし、変容の可能性は十分にあります。なにより、人そのものを切ったり貼ったりする発想よりは受け入れやすい。

この「多様なわたし」という見方ですが、実は日本の江戸文化にヒントがあることをご存知でしょうか。それについては、別の機会に考察してみたいと思います。

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